読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

マンフレート・ルルカー『シンボルとしての樹木 ボッスを例として』(原書1960, 法政大学出版局1994)

ヒエロニムス・ボッスの植物系の形象について、理解が深くなればいいなと思い読みすすめてみたところ、ボッスよりもゴッホの樹木の意味合いについて教えられることが多かった。

錬金術においては、樹木は錬金術的変容の諸相の象徴とみなされ、梯子のように一つ一つの階段(たとえば煆焼calcinaioや腐敗putrefactio)を経て、賢者の石に達する、とされる。現代においては、フィンセント・ファン・ゴッホが樹木を、彼の世界と他の世界とを仲介するものとして描いている。二枚の『星月夜』は、彼の格闘する魂を表現したものである。マイヤー・シャピロはその堂々とした炎のようなイトスギを、「天に水平にかかる竜巻状星雲に対する、地における黒々とした垂直の対応物」とみなし、それは「人間的努力の象徴として、他の風景から」取ってこられたものだと述べている。『イトスギのある麦畑』では、イトスギは天と地を結びつける唯一の垂直線となっている。このように、ファン・ゴッホの樹木は、地上の塵と天上の星屑という両世界を仲介するものとして、その象徴的意味は明白である。(第9章「樹木と人間」p221-222)

そして、自殺直前の『麦畑の鴉』については、地上と天上を結びつける樹が描かれていなかったことに救いのなさを見ていて(第5章「聖なる風景」p117)、その解釈はとても腑に落ちるものであった。

 

ゴッホにもボッスにも、そのほかの多くの画家にも適用できるシンボルとしての樹木に関する記述は、ボッスの素描『耳を澄ます森と見つめる野原』をめぐって書かれた以下部分だろう。

平らな野原と林立する樹木は、双方を水平と垂直方向に伸ばしていけば交叉し、そこにいわば宇宙的な座標軸が形成され、その中央に人間が立っている。人間はその精神のおかげで自分自身を越えて成長し、大地に根づくと同時に天に向かって聳え立つが、天には到達できない。このようにして人間の自我を象徴する樹は世界樹となる。どの人間も主観的には世界の中心に位置している。どの人間の生も、動物(幹の根元の狐と鶏)と神(鳥、特にキリストの象徴としてのキツツキ)との間の道を辿る。(第2章「元型としての樹木」p27)

四大と重力と天文のなかに配置された人間。いま私は、多くの時間デジタル処理されたディスプレイ上の映像によって「世界」に触れていると思っているが、たまには外気の中に立って、一本の世界樹である自分を感じてみる必要がありそうだと思った。

 

目次:
第1章 ヒエロニムス・ボッスの生涯と作品
第2章 元型としての樹木
第3章 心理的投影としての樹のスケッチ
第4章 芸術的造形
第5章 聖なる風景
第6章 楽園の樹木
第7章 樹木の属徴
第8章 枝・棒・十字架
第9章 樹木と人間
夢みられた樹 ――訳者あとがきにかえて

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マンフレート・ルルカー
1928 -
ヒエロニムス・ボッス
1450 - 1516
フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ
1853 - 1890
林捷
1944 -