エマニュエル・レヴィナスの弟子筋の宗教哲学系の作者が綴った穏健なスピノザ解説書。前半で『神学・政治論』、後半で『エチカ』を概観する。本書でいちばん目を引いたのはスティーヴン・ナドラーの『スピノザ』から引用された、ユダヤ教会からの破門状「ヘーレム」の内容。
われわれは律法に記されたあらゆる神の呪いが此の者に降りかかることを願う。此の者は昼に呪われ、夜に呪われよ。寝ている間も起きている間も呪われよ。家の中でも家の外でも呪われよ。願わくは、永遠なる主が此の者を断じて許し給わないことを。
(Ⅰ 政治と宗教に革命をもたらした人 2「傷を負った男」 p38 )
スピノザからは絶対に出て来ないような呪詛の言葉が、神の名のもとにスピノザに向けて叩きつけられている。1656年7月27日。この日以降、所属する共同体がなくなり、より注意深く過ごすようになったとはいえ、スピノザの思索の態度や方向性が大きくぶれることがなかったというのは驚嘆に値する。フレデリック・ルノワールの筆は、スピノザの思索中心の生活を資料と著作から淡々と描き出していて、好ましいものである。著作に関しても間違ったことや自説に引き付けすぎて語るような印象も受けない。ただ、スピノザの思想が何故同時代人たちを逆上させたのかについて、もう少し考察があった方がよかったかもしれない。1670年出版の『神学・政治論』は350年たった21世紀の今読んでも衝撃的な一冊なのだ。宗教的に冷静すぎる人物に対して宗教的情熱をもった人が抱いてしまう激情・攻撃性を、冷静な人(スピノザ)側から語るのが、スピノザ解説者としての礼儀だと思うのだが、著者はすこし違った意見の持ち主のようだった。
私の個人的な意見を言えば、スピノザは宗教の別の側面をなおざりにしているように思う。その一つが、個人の心に働きかけて、時として高次元の神秘体験に至らせる心情的側面であり、もう一つが、情緒的な帰属意識に基づいたアイデンティティ確立に関わる側面である。
(Ⅰ 政治と宗教に革命をもたらした人 6「ユダヤ教への反逆か」 p96 )
フレデリック・ルノワールさん、スピノザっぽくないことを仰っている。様態としての個人は、神秘も帰属もなく神即自然という場で様態同士で相互干渉しながらゆらいでいる何かだくらいに思っていた方がいいのではないかと思う。特殊な温度領域のみが正しいのではなく、神秘も帰属も融けたりする超高温領域も、神秘も帰属も超微量の基礎的な振動しか残らない絶対零度領域も、唯一の実体としての神即自然の個別観測可能な一地方性に過ぎない。ただ、人間という様態にとっては適温領域というものがあるのだから、そのながで「コナトゥス」の最大化を図るのが自然の摂理ということなのだろうと思う。
彼はプラトンやデカルトとは対照的に、理性と感情を対立させていない。理性と意志が人間の精神の力だけを起動させるのに対して、欲求・欲望は人間存在のあらゆる部分を起動させる。理性はそれゆえ、人間を叡智に至らせるためには、感情を殺すのではなく、上手に活かさなければならない。そう考えていたスピノザは、次の基本的命題の正しさを主張する。「ある感情は、それより強い感情によらなければ、逆らうことも消し去ることもできない」。たとえば、憎しみや悲しみや不安は、理性だけで抑え込もうとしても消えることはないが、愛や喜びや希望を湧かせることで自然に癒される。この場合にはの理性の役割は、ポジティブな感情――私たちを悲嘆にくれさせる負の感情より強大で、新たな欲求・欲望を目覚めさせる力のある感情――を呼び起こすことのできる物または人を探し当てることである。
(Ⅱ 叡智を生きた人 5「欲望を何に向けるか」p164-165 )
肥大したものではなく在るべきものがまさに在る適正なサイズ。ちょうどよいというのが、一番ポジティブな感情で、有効領域の大きさは一番大きいはず(ロスがいちばん少なく、効率的にも一番いいはず)だという想いが、スピノザを扱った書籍を読みすすめているなかでだんだん強くなってきている。過剰な革新でも過剰な保守でもない自然の理にかなった道行きとそこに生まれる共同性。間違っていたら多分そのうち苦しくなってくるはずなので、そのときのちょうどよさを探っていけばいいかなと思う。
目次:
はじめに スピノザという奇蹟
Ⅰ 政治と宗教に革命をもたらした人
1 哲学への転向
2 傷を負った男
3 自由な思想家
4 聖書の批判的解釈
5 スピノザとキリスト
6 ユダヤ教への反逆か
7 啓蒙思想の先駆者
Ⅱ 叡智を生きた人
1 『エチカ』、至上の喜びへの道案内
2 スピノザの神
3 力能と完全性と喜びを増大させる
4 自分の諸感情を理解する
5 欲望を何に向けるか
6 善悪を超えて
7 自由と永遠と愛
おわりに 私にとってのスピノザ
【付記】ロベール・ミスライとの往復書簡