読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

4連休なのでジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』を柳瀬尚紀の訳で読んでみる その4:パロディとしての近代小説と「フィネガンズ・ウェイク九句 四の段」

原典ノンブルによる進捗:308/628 (49.0%)
近代小説は神話やロマンスのパロディとして出てきたものだ。セルバンテスの『ドン・キホーテ』は騎士道物語、フロベールの『ボヴァリー夫人』は恋愛物語のパロディとして成立している。主人公は近代の出版事情から生まれ出た新しい読者階層の人物。近代小説のひとつの頂点であるジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』もまた強烈なパロディであるが、それはいわゆるリアリズム系のパロディではなく、語りの面でのパロディという傾向が強い。はじめからパロディの対象に対する姿勢が異方向を向いているので、まあ、内容はよく分からなくなる。聖に対しての俗ではなく、聖俗の区分けを掘り崩す、よくわからない生成と崩壊の場を語りの面から実践的に描いているので、その場に共鳴するか反撥するかが読者としての勝負どころとなる。読者として一番無防備な瞬間に、作者側の戦略を受け止められるかどうか、意を酌んで読書の演劇空間を共に作りあげられれるかどうかが判断の分かれ目になるだろう。まず第一段階は、翻訳書を含めた作者側の笑いのセンスに乗れるかどうかだ。だから、作品提供者側の思惑に乗って笑ってしまったら、もうパロディ肯定側の立場で自分の読みを検証していくほかはない。第Ⅰ部の終結部から第Ⅱ部の開始部分でまんまと提供者側に乗せられて吹き出してしまったのは、たとえば以下の箇所。柳瀬尚紀による日本向けドライブの追加感も、評価の善悪を超えて、たまらない。

モナハン低州の全関数を表すグラフ区画が、同一物の夜(や)やもすれば反転ゼロ可分(かぶん)としても、零雄詩体(れいゆうしたい)に放含(ほうがん)されて、森毅(もりつよし)な遠山啓谷(とうやまけいこく)に神在(かみあ)りが無倍(むばい)∞に等似(とうじ)にかすむようなとき、もし自分が文字どおりに鳩合(きゅうごう)係数でないのならば、国際的無理数に基づいていかにちまちま多々な組合せと順列置換が演じられうるが、ぷひぇっとたくらっ! 閉口根(へいこうこん)を解除去(かいじょきょ)したうえで、アンanとして無知蒙昧ながら、もしもしをアトムとし、それを見つけよ!
河出書房新社フィネガンズ・ウェイク Ⅰ・Ⅱ』p325-326 原典ノンブル 285 実際は総ルビ表記)

森毅な遠山啓谷に神在りが無倍∞に等似にかすむ」って、そんな馬鹿なジョイスの翻訳ってある?(誉め言葉)と思いながら、笑ってしまった時点で、もう、信仰など誰からも期待されていない俗まみれの自称信者となっている。まあ、文学には、こういった水面下の勝手信者が結構必要だ。ピラミッドの最下層への多方面からの(幻想含む)圧を、マゾヒスティックに受け止めながら楽しく過ごす。

フィネガンズ・ウェイク九句 四の段】

変体も(漂形文字)もあかよろし
魂消るよ嗚呼(釈迦力)の犀の角
風食って(マナいたましや)発電機
(O穴)向け(巛彡川)と(魚乱行) ※巛彡川=せんせんせん、魚乱行=ぎょらんぎょう
四五機点くかはたれどきの(艶光り)
おお妥当神話語りの近似解
泥もどき(黄ままなブルー酢)リンゴ鍋
(川)口で隠れ(妖女)と(泥飲)す
奇貨学や(斑眠眼)の曇量る ※斑眠眼=はんみんまなこ


ジェイムズ・オーガスティン・アロイジアス・ジョイス
1882 - 1941
フィネガンズ・ウェイク』 Finnegans Wake
パリ、1922 - 1939
柳瀬尚紀
1943 - 2016