読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

門脇俊介『フッサール 心は世界にどうつながっているのか』(NHK出版 2004)

入門書という位置づけとしては具だくさん且つ野心的な構成の一冊ではないかと思う。初期の『論理学研究』と中期の『イデーンⅠ』を中心に論は進められていくが、フレーゲとの差異やクオリアに関する議論などが混じって展開されるので、初級者には思考を追っていくのが辛い。そもそも一般的なフッサール像といったものをもっていない人間には、議論が高級すぎる。ただ、読み通して何もわからなかったでは面白くないので、著者がいちばんこだわっている部分にだけはフォーカスを一回合わせて、後日の糧としたいと思った。

ターゲットはあとがきの位置づけの「前途瞥見―表象主義から表現主義へ」部分。(a)知覚の志向性(b)信念志向性(c)言語表現の志向性の三層の志向性のうち(a)と(b)の志向性の間からは著者としては除きようのない断絶をいかにとらえるかが問題となっているようだ。著者がフッサールの可能性の中心と考える考えは1から4への展開をたどる(p100-102)。

1.

知覚の志向性が、命題から成り立っている推論的な信念システムに、世界からの制約を与えることができるのは、前者にすでに含まれているものを、命題や推論が完成しているからにほかならない。

 2.

命題や推論は、命題や推論以前に含蓄されたふるまえることの可能性、知覚することができる技能を「表現」するから、知覚によって正しいとされることになる。

 3.

表現とは、命題的・推論的に未確定ではあったがすでに「技能」の形で含まれているものを、明示的に確定してやるということなのである。

 4.

私たちが何か適切なふるまいを知覚を用いて環境のうちでなしうるから信念システムは正しい、というメカニズムが提案されているようである。

 

ここには私が本書と並行して読んでいたフッサールの後期作品『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』に出てくる「生活世界」、「内在-超越」、「妥当」、「間主観性」といった概念は出てきていない。著者が魅力を感じていない後期の論理展開のほうがわかりやすいといえばわかりやすいし、「技能」と「表現」の同時的正当化みたいな発想よりも(a)と(b)との間の「妥当」を介した相互連携というふうにとらえたほうが飛躍がなくていいんじゃないかと思うが、専門的に読んでいる人には、その読みには落ち度があるし魅力に乏しい考えだということなのだろう。別の機会にフッサール後期の魅力の乏しさに出会えたら、またその時考えてみたい。

 

目次:
第1章 フッサール心の哲学―世界を表象することの転換
第2章 言語表現とは何か
第3章 真理へ向かう存在としての私たち―志向性の理論
前途瞥見―表象主義から表現主義

 

www.nhk-book.co.jp

 

門脇俊介
1954 -
エドムント・グスタフ・アルブレヒトフッサール
1859 - 1938