読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

竹田青嗣『完全解読 フッサール『現象学の理念』』(講談社選書メチエ 2012)

きれいに整理されていてわかりやすいというか付き合いやすい現象学の解説書。フッサール自身の文章の繰り言じみたしつこさ(=『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』を読んでの私の印象)を逆照射もしてくれて、フッサール現象学へのこだわり方の特異性を浮き立たせてくれている。竹田青嗣には文芸批評家としての印象がはじめにあり、その仕事の対象が個人的にあまり食指が動くものではなかったために今まで意識的に読むことはなく過ぎてしまったが、今回読んだこの「完全読解」シリーズは当たりの感覚が強く残った。仲正昌樹の入門シリーズと肩を並べる仕事と思う。

 

【あとがきの結語部分】

現象学の観点からは、「絶対に疑いえないもの」として存在するのは、ただ個々人の「意識体験」それ自体だけである。これに対して、この意識体験から構成されてくる、世界のあるいは諸事物についての存在確信は、これまた原理的に、どこまでも相対的な可疑性(疑わしさ)をもっている。というのも、世界や事物についての一切の存在確信は、現象学的には、この「意識体験」(=超越論的主観性)から形成された「意味の網の目」と考えるべきものだからである。
(「あとがきに変えて――現象学の再興」p287)

 

現象学的エポケーについて】

現象学的にいえば、<内在意識>(超越論的意識)は一切の意味がそこで生起する「原事実」であって、それが何によって”構成”されているのか、という問いは、実体論的な「形而上学」へと落ち込むことになる。現象学的エポケーとは、まさしく「経験意識」の背後に先構成的に遡ることの”禁止”を意味する。またそれが、「主観-客観」図式を廃棄して「内在-超越」をおくということの意味でもある。
(「あとがきに変えて――現象学の再興」p237 太字は実際は傍点)

 

意図的に判断中止をし宙づりの状態を意識しつつ思考するという現象学の方法は、その限界点への拘りとともに踏みとどまることの鮮烈さを感じさせてくれるものであった。

 

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竹田青嗣
1947 -
エドムント・グスタフ・アルブレヒトフッサール
1859 - 1938