読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

竹田青嗣『完全解読 カント『純粋理性批判』』(講談社選書メチエ 2010)

完全かどうかは別にして、とてもいい解読書。「悟性」と「理性」の理解度が高まったというか、印象深いものになった。

 

【悟性】

悟性は、本来感性と結びついて対象認識を行なう役割を持つが、しばしばこの限界を超えて、感性的直観をもたない領域についても、あたかも客観的認識が可能であるかのように考える。そのような悟性認識の”逸脱”をここで「仮象」と呼ぶのである。
(中略)
本来、対象の認識は、感性的直観という素材に悟性の思惟の規則(⇒カテゴリー)が統一を与えることで成立する。しかし、悟性はそのような直観的対象をもたない領域にまで思惟の規則を適用し、そのことで、主観的認識でしかありえないものをあたかも客観的認識であるかのように見なす、という逸脱を犯すのである。このような、悟性の先見的能力が犯す認識上の逸脱を、私は他の認識上の誤謬と区別して「先験的仮象」と呼ぶのだ。
(Ⅰ「先験的原理論」第二部門「先験的論理学」第二部「先験的弁証論」緒言 p149-150)

 

【理性】

われわれが見てきたのは理性の世界の存在についての次のような仮象的な推論だった。理性は与えられたものから、その条件の系列をどこまでもたどって、どこかに推論の完結する場所を見出したいと望み、ついに理性のあるべき限界を越境して絶対的な無条件者の存在を推論するに至る。これは人間の理性のとる自然な進路であり、しかも常識的な理性がこの道をとる。しかし、実際には、理性はこの背信を終点まで歩み尽くすことはできず、だから、絶対的無条件者を見出すことはできない。
(Ⅰ「先験的原理論」第二部門「先験的論理学」第二部「先験的弁証論」第二篇「純粋理性の弁証的推理について」第三章「純粋理性の理想」第三節「思弁的理性が最高存在者の現実的存在を推論する証明根拠について」 p296)

 

「悟性」も「理性」も役割の限界を超えて働いてしまう。しかも理性にいたっては「どこかに推論の完結する場所を見出したいと望み」ながら、限界を超えてしまう、ということで、なんだか愛おしくも思えてしまった。やめたいと思ってもやめられない推論。とても人間的だな。

 

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竹田青嗣
1947 -
イマヌエル・カント
1724 - 1804