読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

竹田青嗣『完全解読 カント『実践理性批判』』(講談社選書メチエ 2010)

道徳をめぐるカントの思想は「物自体」の概念規定を含めて「純粋理性」を語る時よりも変わっている(トリッキー)と書き留めておきたい。「自由」の概念も常識的自由とはひどく異なっている。そして竹田青嗣による明晰な解読は、カントの特異性をますます際立たせてくれているように思える。

 

実践的な規則は(それが主観的であれ客観的であれ)、原則としては理性の産物であって、目的(為すべきこと)と手段(いかに)のつながりを教えるものだ。そして、人間が完全に理性的存在でない以上、それは、「~である」という肯定文ではなく、基本的に「命法」(~すべし)の形をとる
(第一部「純粋実践理性の原理論」第一篇「純粋実践理性の分析論」p33)

 

思弁的理性は経験的領域の認識しかできず、絶対的に無条件なものを客観的対象として認識することはできない。そのため「自由」の概念は、ただ、無条件的な原因性があるはずであるという理論理性の「統制的原理」(理想的理念)としてのみ想定されていたのである。
(第一部「純粋実践理性の原理論」第一篇「純粋実践理性の分析論」p82)

 

時間のうちでの事物の一切の実在的な変化を説明するいわゆる「原因性」の概念は、あくまでわれわれの現象界(経験世界)においては完全な規定性をもつ。しかしそれは、「物自体」の世界(可想界)においては、そのまま事物の生起の根本原因と見なすことはできない。われわれは物自体の世界の根本原因性を、けっして認識することはできないからである。
したがって、われわれが「自由」を「可想界」の秩序と見なすかぎり、それを絶対的に自然法則に規定されたものと見なす必要はない、ということになる。
つまり、人間の「自由」は、人間を現象界に属するものとして考えるかぎりでは自然法則の因果性に規定されていると見なしてよいが、しかし同時に、人間を「可想界」に属するものと考えるかぎりで、人間の意志を完全な「自由」原因と考えてよい、とカントはいうのだ。
(第一部「純粋実践理性の原理論」第一篇「純粋実践理性の分析論」p138)


「可想界」はまた「叡智界」とも呼ばれ、「物自体の世界」であるという。「自由」はこの「物自体の世界」に属する。私という人間の存在は「現象界」と「可想界」に存在するので、「私」は「物自体」でもある。「物自体の世界」に存在しているところの「私」は「自由」に関係することができる。ゆえに「私」は「自由」であることが可能である。「経験世界」の「因果法則」に関係しない「普遍的立法の形式」により自分を律する「意志」が「自由な意志」と呼ばれる。面倒な議論だけれども現象界に自由を根拠づけるものはないというのだから、変わった議論になるのも当然なのだろう。


ところで、『トランスクリティーク』以降の柄谷行人がいろいろなものを「物自体」と言っている発想のもとにあるものをつかみかねていたが、「可想界」に存在するものを「物自体」として考えれば、なんだか腑に落ちてくる感じがする。「死者」「未来の生者」「歴史」などをたしか「物自体」としてあげていたような記憶がある。また、「この世があるには、あの世がなければならない」ということも言っていたことがあり、こちらも「あの世」=「可想界」と翻訳して考えるとそう不思議な感覚はなくなる。合っているかどうかは分からない。

 

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目次:
緒論 実践理性批判の構想について
第一部 純粋実践理性の原理論
 第一篇 純粋実践理性の分析論
 第二篇 純粋実践理性の弁証論
第二部 純粋実践理性の方法論

竹田青嗣
1947 -
イマヌエル・カント
1724 - 1804

 

【付箋メモ】

17, 24, 33, 39, 47, 55, 64, 74, 75, 76, 79, 82, 92, 95, 107, 126, 135, 138, 148, 158, 160, 165, 174