読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

マルティン・ハイデッガー『詩のなかの言語 ゲオルク・トラークルの詩の論究』(初出 1953, 理想社ハイデッガー選集14 三木正之訳 1963)

ハイデッガーが傾倒した詩人はヘルダーリンとトラークル。トラークルはヘルダーリンの特に後期作品に影響を受けている面はあるものの、詩の印象はかなり異なる。ヘルダーリンは聖なるものに向かう印象が強く、トラークルは死と病に憑りつかれている印象が強い。私が二〇代のころトラークルをよく読んだのは、暗く妖しい表現のなかに青白い冷たい輝きがあって、そこに魅かれたためだった。ここ数年は読み返すこともなかったこともあって、今回ハイデッガーのトラークル論を読んで、結論としては「精神の熱い焔」「明朗感」「光輝」といった陽性の言葉でトラークルが肯定的に評されていることに少し違和感を持った。少し強引ではないのではないかという想いから、あらためてトラークルを小沢書店の瀧田夏樹訳でひととおり読み直し、もう一度ハイデッガーのトラークル論を読み通してみたところ、ハイデッガーにとってのトラークルはヘルダーリンと並んで掛け替えのない詩人、苦しみの中で本質を開示する聖なる詩人としてヘルダーリンと同列の輝きのもとに称揚されている存在なのだなということは納得できた。ただ、トラークルは多くの場合「死」に向き合うことで、「原初の時の光輝」「聖なるもの」「真の時間」「黄金」」「本質的なもの」に到達することが可能になっているため、基本的な印象は暗いものとなる。ハイデッガーに「性急に思考している」がための結果だと指摘されても、初発の印象が暗く頽廃的なものであることを消し去ることはできない。

精神は焔である。燃え上がりつつ焔は照らす。照明は観照の眼において生起する。かかる観照にとってこそ、一切の本質存在するものを来たって在らしめるところの遍照の、到来は発現するのである。この、燃える観照が、苦痛である。苦痛を感受からして表象するごときあらゆる思念にとっては、苦痛の本質は閉ざされたままである。燃える観想こそ魂の偉大さを想定する所以である。
ハイデッガー選集14『詩とことば』「詩のなかの言語」p48)

 

妨げられたもの、阻まれたもの、不完全なもの、救なきもの、凋落するものすべて悩み多きもの、それは実はそこにのみ「真実なもの」即ち一切を貫いて遍く存続しているところの苦痛がかくされているところの、唯一の外観にすぎない。それ故に苦痛は妨げとなるものでもなければ、また役立つものでもない。苦痛は一切の本質存在するものの本質的なものがもっている恵みである。苦痛のもつ反転的本質にそなわる単純さが、かくされたる最も早き原初からの生成を規定しており、それを偉大なる魂の明朗感へとむけるのである。
生きるものは かくも苦痛にみちて善く、真実なものなのか、
・・・・・・
ハイデッガー選集14『詩とことば』「詩のなかの言語」p51)

 

トラークルの詩の引用は「明るい春」第三部最終連のはじまりの行。第一連を小沢書店の瀧田夏樹訳から引用すると次のようになる。

 

だが 育ってゆくものはみな なんと病んで見えることか。
熱い吐息が村落を吹きめぐる、
だが 枝々の中から柔かな霊が合図を送り
そして 気持ちは広く危うげに開くのだ。

 

詩においてトラークルは苦痛にかろうじて耐え、輝きを発するものを引き寄せ受け止めていた。詩においてはそれで満たされていたかもしれないのだが、現実の生活においては麻薬に走った。最後は第一次世界大戦の悲惨さの中でコカインの過剰摂取により若くして亡くなっている。苦痛を恵みとしてみることなどそうそうできるものではないということにかんしては、ハイデッガーのトラークル論を読み、トラークルの詩を読み直してみて、あらためて理解し直せたようだ。

 

マルティン・ハイデッガー
1889 - 1976
ゲオルク・トラークル
1887 - 1914
ヨハン・クリスティアンフリードリヒ・ヘルダーリン
1770 - 1843
三木正之
1926 - 2018
瀧田夏樹
1931 -