読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

マルティン・ハイデッガーのヘルダーリン論二篇「ヘルダーリンの地と天」(1959),「詩」(1968)(理想社ハイデッガー選集30『ヘルダーリン論』 柿原篤弥 訳 1983)

ヘルダーリンを論じながら現代技術世界における自然とのかかわりを問う論考。

まずは詩人とは何か、何が大事かについて一九六八年の講演『詩』で説かれているところを見ると、以下となる。

肝要なるは、おのれのものの正しき有(たも)ちを完遂することである。肝要なるは、「重荷を保持すること」である。肝要なるは、現在する神々の来臨を称え言ずることの緊急を耐え忍ぶことである。肝要なるは、この言ずることを「しづかに」担うことである。
理想社ハイデッガー選集30『ヘルダーリン論』「詩」p151)

ヘルダーリンが詩で歌う神は、キリスト教の神というよりは土地の神に近い。山の神、河の神、大地の神など。そのため、現代技術によって変更を加えられ利用させる資源に対しても、神を予感し、神の霊性、物の本来性について思いをめぐらすハイデッガーの思索とリンクしてくることになる。

私たちに対しておのれを拒否するものは、その拒否を通じてまさにひとつの固有な方式で私たちに係わりをもちます。そのような係わりは、今日しかも至る所で、いまだまれにしか思惟にかけられていないひとつの挑発の如きものの中で人間にうち当ります。つまりこの地上の人間は、現代技術の本質ならびに技術自身の無制約的支配によって、世界の全体を、ひとつの最終的世界公式によって確保されて、それ故に算定可能な画一的用象として、用立てするように挑発されています。そのような用立への挑発は、万象を唯一の概画の中へ調整します。その概画の作為が、無限なる関わり合いの脈絡を押しなべて平板にします。四者(引用者注:天、地、人、神)の「命運の声々」の円居(まどい)はもはや鳴り響きませ。現に有りまた有り得るもの一切についての計量的用立てへの挑発は、無―限なる関わり合いを佯立(Verstellen)します。そればかりではありません。現代技術の本質の支配の中に統御する挑発は、その中から挑発の調整する力が、その遣運を受け取っている他ならぬかのものを、一切に対してあらかじめ、経験しえざるものの中に留め置きます。
理想社ハイデッガー選集30『ヘルダーリン論』「ヘルダーリンの地と天」p59 太字は実際は傍点)

 

現代の生活で「算定可能な画一的用象として、用立て」されていないものが主流となったらそれはそれで大変困る。バウハウスの工業デザイン製品やウィリアム・モリスのデザイン製品くらいならまだ頑張れば手が届いて、使い勝手も心地よいかもしれない。でも、それらはどうしても贅沢品の部類に入るし、日常の道具、商品一点一点にこだわりを持ち、深く対話しながら日々を過ごすような時間感覚の中で現在の社会は動いてもいないし、みながみな芸術志向の生活を欲しているわけでもないだろう。だからこそのハイデッガーの批判というところだが、ハイデッガーほどの拘りがない一般市民レベルで本質がそれほど必要かどうかは疑問として残る。身の回り全部が芸術だったら、自分自身も芸術品を作ってそれを売って生活を成り立たせなくてはいけないし、今の芸術はいちど徹底的に「算定可能な画一的用象として、用立て」られることを計算した上で、個別の物語りがはじまるような品物になっていなければならない。またその傾向はすでに現在の一般商品レベルにも、それこそ技術レベルで要求されている。発達した市場経済の中で純粋に本来性を追求するのは奇跡に近いことではないかと思う。ただ、化石燃料原子力などに依存して進展してきた社会にあらわれてきた数々の問題は、四者のうちの「人」に、本来性についての再考を促していることは確かだ。不安を煽る商法や政争になるべく巻き込まれることのないように注意しながら、人の話や市場に接して、なにを「収穫」したら心地よいのか、自分の意にかなうのか確かめつつ過ごせるようにはしたい。

ギリシア人(びと)の国土(くに)

人間(ひとびと)がかくある如く、命(いのち)は華麗なり、
人間は自然をしばしばあやつり、
華麗なる国土(くに)は人間に覆蔵(かく)さるることなく
魅惑もて夕べと朝(あした)は立ち映ゆる。
開けたる野は収穫(とりいれ)の日にある如く
精神性(こころばへ)を帯びひろくめぐりて古き言(ことば)はあり、
そして新なる生が人間性(ひとのさが)より再び来たり
かくして一年(ひととせ)は鎮まりをもて沈みゆく。

 

こちらは柿原篤弥の訳。ハイデッガーの論考自体についてはすこし古めかしい言葉遣いを使用しているために読みやすいとは言いがたい面もあったが、ヘルダーリンの訳詩はハイデッガーの論考自体とよく融合していて、非常に魅力が出ていた。同一の詩の後半部分は手塚富雄訳ではこうなる。

ひろごる野は収穫の日のさまに似、
霊性をたたえて古い伝説はあたりにひろがる、
こうして新しい生はふたたび人性から始まり、
年は静かにかなたに沈む。

柿原篤弥の訳で「精神性を帯びひろくめぐりて古き言はあり、/そして新なる生が人間性より再び来たり」と読むほうが、技術のベースにある物理法則やものそのものの存在にあらためて向き合う人間のイメージがより鮮明に浮き上がってくるようで、論考「ヘルダーリンの地と天」の日本語訳としてはふさわしく感じた。

 

マルティン・ハイデッガー
1889 - 1976
ヨハン・クリスティアンフリードリヒ・ヘルダーリン
1770 - 1843
柿原篤弥
1922 - 1989
手塚富雄
1903 - 1983