読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

マルティン・ハイデッガーの技術論二篇「技術への問い」(1949,1955)「転向」(1949)(理想社ハイデッガー選集18 小島威彦・アルムブルスター 共訳 1965)

ヘルダーリン詩篇に導かれるかたちをとって展開される現代技術論。

されど危険の存するところ、おのずから
救うものもまた芽生う。
ヘルダーリン「パトモス」(部分)

 

危険がまさに危険と言われるべき危険としてあるところには、既に救うものもまた生育しているのである。救うものは決して、並存的に立ち現れてくるのではない。救うものは危険と相並んで立っているのではない。もし危険がまさに危険といわれるべき危険としてあるなら、その危険自体がとりも直さず救うものなのである。危険が救うものでありうるのは、危険が隠密のうちに転向しうる自己の成存から、救うものを持ち来たすかぎりにおいてである。「救う」とは何をいうのか。それは、弛め、自由にし、解き放ち、労り、囲い、保護し、見護ることを意味する。
理想社ハイデッガー選集18『技術論』「転向」p70 太字は実際は傍点)

 

毒と薬は表裏一体といったところか。

農夫の仕事は耕地を挑発するのではない。穀物の播種にあっては、その芽生えは生長力に委ねて、その繁殖を看守る(ヒュッテン)のである。ところがもはや田畑の手入れ〔仕立て〕も、自然を立たせる、全く変貌をとげた仕立て(ベシュテツレン)の渦のなかに、巻き込まれてしまった。その仕立ては、挑発の意味において自然を立たせる(シュテツレン)のである。耕作は今日では、動力化された食品工業である。空気は窒素を引き渡すように立たされ、土地は鉱石を、鉱石は例えばウラニュームを、ウラニュームは原子力を引き渡すために立たされ、原子力は破壊にも平和利用にも放出されうるのである。
理想社ハイデッガー選集18『技術論』「技術への問い」p31 太字は実際は傍点)

旧来の農夫への郷愁は持ちながらも、現代の工業化の傾向を全否定しているわけでもない。技術の本性との共存をはかりつつ展開する方向性を基本的に指し示しているようだ。

もはやここでは技術を盲目に追い廻したり、あるいは、同じことだが、徒らに技術に反抗して恰もそれが悪魔の仕業であるかに断罪したりするような、鈍重な抑圧のなかに監禁されることはない。逆に、技術の本性に適って自らをうち開くとき、私たちははからずも自由に解き放つ呼び求めに出会っていることに気付くであろう。
理想社ハイデッガー選集18『技術論』「技術への問い」p46 太字は実際は傍点)

 

悲観せず、楽観もせず、有りうるものが有るように有りますようにと願いつつ、ものの移り行きに参加する。

 

マルティン・ハイデッガー
1889 - 1976
ヨハン・クリスティアンフリードリヒ・ヘルダーリン
1770 - 1843
小島威彦
1903 - 1996
ルートヴィヒ・アルムブルスター
1928 -