読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ポール・ヴァレリー『ムッシュー・テスト』(原書1946, 岩波文庫 清水徹訳 2004)

一八九四年ごろから構想されはじめた小説『ムッシュー・テストと劇場で』からはじまるヴァレリー唯一の連作短編集。死の直前までテキストに手を入れていたり、ムッシュー・テストにまつわる自筆の版画やデッサンを描いていたりと、作者にとってそうとう愛着のある作品であることは容易に想像がつくし、日本の歴代の訳者を見ても小林秀雄や粟津則雄、松村剛、菅野昭正、そして岩波文庫版の清水徹とそうそうたる人物たちが上がってくる作品で、必読書っぽい佇まいはあるのだが、わたしにはこの作品の良さがあまりよくわからないでいる。20代頃から何回か読んで、感銘を受けないというのは、わたしにはあまり向いていない作品ということなのだろう。小説というふうにいわれても、ムッシュー・テストが想像上の人物であるということ以外に、それほど小説っぽいところはなく、ヴァレリー自身も小説の形式に対して何かしら仕掛けをしているという雰囲気もない。眼目はムッシュー・テストの思想の展開にあるらしいことは伝わるが、驚くべき「怪物の」思想であるかどうかは人によるのではないかと思う。

清水徹の解説には、ムッシュー・テストの造形としては

ひたすらみずからの「可塑性」に働きかけ、すべてが可能であって、しかも何も示さず、何もしないありようを目指すという、いわば倒錯した理想像(「解説」p178)

 とある。

本文で、その理想像的思考回路が語られる部分は何ヶ所かあるが、わたしがこれというところを挙げるとすれば『ムッシュー・テストの思想若干』の以下部分。

わたしがしたり考えたりすることは、すべて、わたしの可能事の「見本」にすぎない。
人間は、その生活や行為より、もっと普遍的なものだ。彼は、自分の認識しうる以上の予測可能事態を受けいれるように、いわば準備されている。
ムッシュー・テストは言う。わたしの可能事はけっしてわたしを捨て去りはしない。
(『ムッシュー・テストの思想若干』p153 太字は実際は傍点)

 「準備されている」ものは、しかしながら、「生活や行為」あるいは思考や発言や書字といった「見本」においてしか浮き上がってこないのではないかという想いがわたしにはあるので、ヴァレリーの書きしるしたもののなかから、可能事の「見本」と「準備」の関係について蔭画的に描かれているところを、むしろより好ましいものとして、記憶に留めておこうと考えた。

わたしの担う、わたし自身にも未知なるもの、それがわたしをわたしたらしめる。
わたしのもつ不器用な、不確かなところ、それこそがわたし自身だ。
わたしの弱さ、わたしの脆さ……
欠陥がわたしの出発の基礎なのだ。わたしの無能力がわたしの原点なのだ。
わたしの力はあなたから出てくる。わたしの動きはわたしの弱さからわたしの力へと向かう。
わたしの現実の窮乏が想像上の富を産む。そしてわたしは、こうした対象関係である。わたしは、わたしの欲望を無化する行為である。
(『ムッシュー・テスト航海日誌抄』p99-100)

「わたしの可能事」は思考対象としてのわたしを超えている。不可視であり不可触であり制御の対象外の領域に踏み込んでいる。それゆえそれはわたしにとって「不器用な、不確かなところ」、「わたしの弱さ、わたしの脆さ」、「欠陥」、「無能力」という暗さとともに垣間見えてくる。「現実の窮乏」というところから「可能事」がおぼろげに姿を見せてくる。思考を含めた行為という「見本」の貧しさとともに開かれる「可能事」、そういう回路をもって「可能事はけっしてわたしを捨て去りはしない」と言えることができるのだと本日のところは考えたい。

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目次:
ムッシュー・テストと劇場で
友の手紙
マダム・エミリー・テストの手紙
ムッシュー・テスト航海日誌抄
ムッシュー・テストとの散歩
対話
ムッシュー・テストの肖像のために
ムッシュー・テストの思想若干
ムッシュー・テストの最期

 

ポール・ヴァレリー
1871 - 1945
清水徹
1931 -