読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

マルティン・ハイデッガー「野の道」(原書1949, 理想社ハイデッガー選集8 高坂正顕・辻村公一 共訳 1960)

「野の道」は日本語訳本文8ページの小品。ハイデッガーの生まれた郊外の町の自然と小さな道についての随想、機械化の時代を生きる人間についての警告をふくんだ言葉である。本文より分量の多い解説と訳注は、内容が濃く、他のハイデッガー作品への導きもあり大変有益。とくに注9は対象となっている本文とともにハイデッガー思想が凝縮された形で提示されていて読みごたえがある。また訳注に出てくるハイデッガーの山荘がある地名トートナウベルクの記述はパウル・ツェランの存在を呼び起こさずにはいない。ツェランハイデッガーが対面の時を持った場所でもあるトートナウベルク。出会いの際にハイデッガーからツェランに贈られたという「思惟の経験より」の冒頭の詩をみたらツェランの詩「トートナウベルク」も確認してみたくなり、実際読んでみたが、この二人の関係はもっと深く潜っていく必要がありそうで、少なくともハイデッガー「思惟の経験より」を読んであらためて考えてみようと思った。

【本文】

野の道の呼び声は、開かれた自由なるものを愛する気質を目覚めさせてくれる、苦悩さえもなお恵まれた個所に於て、究極の晴朗さの中へと跳躍する気質を目覚めさせてくれる。この究極の晴朗さ、明るさ、それこそ徒らにただせき立てられ、単に虚無的なるものを促進させるにすぎない労働の、埒を外れた乱脈さを阻止するのである。
(原文は旧字旧仮名)

 

「虚無的」なのは、自身の生活に密にかかわることのない細分化された分業の一端を担当しているにすぎないということが大きな原因であろう。また「埒を外れた乱脈さ」は、発達した資本主義経済の競争原理が駆り立てるものであろう。ハイデッガー自身は手仕事的なものの価値を別のところで称揚していたのだが、全員が手仕事的な仕事で暮らしていけるほどの状況には二十一世紀の現在でも到達していない。分業しているものをすべて機械に任せ、人間は野の道に帰るという暮らしはまだ無邪気な想像の域にしかない。

【注9の前半部】

人間が自らの計画によって世界を建立し得るとなした時、存在するものは存在の根源との結びつきを失い、人間によって単に彼の前に vor 置かれる stellen もの、即ち、表象 Vorstellung にすぎぬものとなった。世界は世界像 Weltbild にすぎぬものとなった。人間中心的な近代が単に世界像の時代と云われる所以はここにある。そして世界像の時代はまた機械の時代であり、技術の時代でもある。ところが技術即ちテクネのギリシャ的な意味は「存在するものを露わならしめる」こと、自然の上に浮び上らしめることであっただろうに、今では人間が自らの計画によって組み立てることとなる。ここにも存在の根源との結びつきは失われる。
(原文は旧字旧仮名 太字は実際は傍点)

 

機械や技術は生活を簡便なもので整えられるようにしてくれていて、その恩恵は計り知れないものがあると私は思う。土地や家の呪縛から解き放たれたというよりも、土地や家の崩壊から漂い出しアトム化したといった方が現状にそくしているかも知れないが、まだそれらが今よりも断然濃く残っていた一世代二世代前の地方の農村の世界のほうが本質により近い生活だとも思わないし、「虚無的」ではなかったとも思わない。それより前、近代以前の自然や生活が良いとも思えない。「存在の根源との結びつき」などというものが、いつかの時代に楽園的に存在してなんて少なくとも私には信じられない。庶民層であってみればなのこと望ましいものとして根源と結びついていたということはないだろう。何かしら困難に直面したときに、ゆるぎない根源のはたらきに出会い、あとは収穫の祭の時に束の間自然の恵みや喜びをかみしめるくらいだったと思う。今の機械化の時代、技術の時代にあっても、根源のほうが私たちをそう簡単には解放してくれないだろう。時代にあった根源との相応しいかかわり方というものをいつの時代でも探すべきだというように考えておいた方が反動にもならず生産的だと思いはするが、現代の変化のスピードがただならないものであることには放心もするし、なにかよい舵の取り方があれば広めていって欲しいものだとも思うのは確かだ。

 

マルティン・ハイデッガー
1889 - 1976
パウル・ツェラン
1920 -1970
高坂正顕
1900 - 1969
辻村公一
1922 - 2010