読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

マルティン・ハイデッガー「へーベル ― 家の友」(原書1956, 理想社ハイデッガー選集8 高坂正顕・辻村公一 共訳 1960)

ヨハン・ペーター・ヘーベルはドイツ語方言であるアレマン語によって詩集を編んだ詩人。ハイデッガーは母なる言葉、国言語の重要性に眼を向ける思索者なので、ヘーベルのような民衆詩人を称揚する。本論文は、ヘーベルの活動を語りつつ、二〇世紀の機械化の時代に於て、言語もまた機械的技術的に分析使用されるようになっていることを指摘している。二〇二〇年の第3次AIブームが継続している今の世界にも適用できる言葉の在りようを、まだコンピュータができはじめたばかりの時代に描き出しているのはやはりさすがだ。

ひとは、今や電子頭脳の建設と聯関して単にさまざまな計算機のみならずまたいろいろな思考機械や翻訳機械が建造されていることを、知って居ります。然るに、狭義に於けるそしてまた広義に於けるすべての計算、すべての思惟とすべての翻訳、それらは孰れも言葉をそれらの固有地盤としてその内に於て動いて行きます。従って、上に挙げられた諸々の機械を通じて言語機械なるものが実現されたのであります。(p58 太字は実際は傍点)

 そして言語機械は、「私たちが言葉を使用する場合の可能的な仕様の仕方を、基礎づけ、算定」することで、我々に影響を与え続けているという。これは統計分析をベースに、随時発生してくる事態を解析し、次にとるべき行動に指針と選択肢情報を抽出選定するという、現在、人工知能が大いに活躍している分野の現象の根底部分を捉えている言葉だ。計算能力の圧倒的な増大により様々な恩恵にあずかっていることも確かなのだが、あまりにも多くの分析結果が即座に提供される世界をきりなく経験し続けていると、われわれ自身も機械的な反応に従っているような感覚をもつことにもなり、自分自身の存在の軽さ、分析対象かつ操作対象としてあつかわれていることの軽さに、あきれてしまうということにもなっている。

言葉でさえも、私たちが取扱うその他すべての日常の事物と同様に、ただ一個の器具に過ぎず、しかも意思疎通とインフォメーションとの器具にすぎない、ということであります(p57)。

 言葉だけでなく、人間自身も器具になっているような感覚。これは、まあ、現在を生きる人間であれば完全には取り除くことはできない感覚であろう。そのような浮薄な状態に半身を沈めつつ、もう一方の半身でハイデッガーが本来的なものとして語る言葉との関係性をまずは知るようにしておきたい。

本来、語るのは言葉であって人間ではない。人間は、彼がその都度言葉に応えつつ―語る限りに於いて初めて、語るのである(p57)

 歴史的に使用されてきた言葉の厚みの中で、言葉に語らせつつ、言葉に応え、生身の体で偏差の有無を感じながら生きる、という暫定的な対応方針は一読者として掲げられる一方、この論文で語られている技術的な対象としての「計算」「思惟」と、それ以外の「一層深い」関係における「思惟」についての違いがどの辺にあるのかという疑問は解決には到らずに残った。

マルティン・ハイデッガー
1889 - 1976
ヨハン・ペーター・ヘーベル
1760 -1826s
高坂正顕
1900 - 1969
辻村公一
1922 - 2010