読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

マルティン・ハイデッガー『ロゴス ― ヘラクレイトス・断片五〇』(原書 1951, 理想社ハイデッガー選集33 宇都宮芳明訳 1988)

ヘラクレイトスが活動していた2500年前から、思索の本質は変わらない。だから、「思索は、世界を変革する」といわれても、思ったほどの速さや量では変わらないと思っておいた方がよいだろう。どちらかというと、本質から外れた思惟、『放下』でいわれていた「省察する思惟」「追思する思惟」ではない思惟、技術のベースにある「計算する思惟」や政治体制の選択変革のほうが「世界を変革」することは多い。哲学者がもっぱら世界を変えているというわけではない。思索は「作者(アウトール)〔創始者〕とは無縁」といわれているように、世界を思うようには作り変えられない。ハイデッガーの言葉を読むかぎりでは、世界がそうあるほかない進み行きを「暗い深い」流れとして予測し波及させ追認するくらいが、思索の活動域だと考えておいた方がよい。世界の「暗い深みとして」の本質は変わらない。本質の現われとともにあることを、思索といわれるものが、気づかせ、支えてくれる、というくらいに、「迷いを解くことのうちにとどまる」ことの技法として思索があるというくらいに考えておいたほうが良いと思う。

思索こそがまことに本来の問題である。思索者の語は、なんら権威(アウトリテート)をもたない。思索者の語は、著述家という意味での作者(アウトール)〔創始者〕とは無縁である。思索の語は形象に乏しく、魅力はない。思索の語は、それが言うところのものを目指して、迷いを解くことのうちにとどまる。とは言え、思索は、世界を変革する。思索は世界を、その度により暗くなる謎の泉の深みへと変えるが、この深みはより暗い深みとしてより高い明るみを約束する。

「思索の語は形象に乏しく、魅力はない」。大丈夫、「思索の語」以外のほかの語も、とびぬけて魅力があるということはない。

 

マルティン・ハイデッガー
1889 - 1976
ヘラクレイトス
B.C.540 - B.C.480
宇都宮芳明
1931 - 2007