読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

マルティン・ハイデッガー『モイラ ―パルメニデス・八・三四-四一』(原書 1954, 理想社ハイデッガー選集33 宇都宮芳明訳 1988)

モイラは「運命」もしくは「割り当て」で「送り定めながら配分する」はたらきとして提示されている。ギリシア神話では寿命をあやつり決める女神の地位で、時に無常の果実を用いて相手から力を奪うという技も持っているらしい。

運命の最たるものは死で、ハイデッガーによると死は以下のような相貌に収まる。

思考にただ安全の保障だけを期待し、それが用いられずに済むようになる日を指折り数えているひとは、思考に自己否定を求めているのである。われわれが、死すべきものたちの本性がかれらに死に至るように命じる指図に注意することへと呼ばれているのを熟考するならば、この要求はある常ならぬ光のうちで現れる。死は死すべきものの最極端の可能性として、可能なるものの終わりではなく、呼びつつ顕わすことの秘密の最高の集蔵(集中しつつ保蔵すること)なのである。

「可能なるものの終わり」ではない死、「最極端の可能性」としての死は、死を迎える本人として想像する限り、具体的なイメージが湧かないので困る。本人の意思や思考とは離れたところ、突然死や意識混濁の状態下での死だって当然あるはずで、死の秘密に向き合う間もなく死んでしまうことの方が多いだろう。だから、普段から死すべき存在としての己をよく吟味しておけというのなら話は分かりやすいが、ハイデッガーはなんかもう少し秘教的なことをいっているような気がして、読後のおさまりは悪い。死による完結もしくは中断は生き残った側にいる人にこそ意味があるような気もするが、それは自分の死ではなく、他の人の死で、死そのものというよりもやはり人の完結、中断、逝去、物故など、やはり他者の生前の活動に絡んだ印象にとどまるものだろう。自分が死ぬそのときに「秘密」なんて知りたいとは思わない。よかったとかそれこそ何らかの至福が保証されるなら、そのタイミングでの開示でもいいけれど、そうでなければ次がないし、その時を保蔵することも不可能だろう。ということで、ハイデッガーの「呼びつつ顕わすことの秘密の最高の集蔵」としての死については判断保留で、そういう考えが存在しているということを記憶しておく。

パルメニデスの断片八の三四-四一冒頭は《思考することと、あるがあるという思想〔思考されたこと〕とは同じである》というもので、同じく断片三《なぜなら、思考することと存在することは同じである》の解明にあたるものとのことだ。

存在の開けは思考の開けで、思考の開けが存在の開けであるともいえるだろうか。

すべては表象作用に対して存在するものとなる。
存在することと存在するものの二襞は、そのものとしては本性なき空虚なもののうちへと消え去るように見える。とは言え、思考はそのギリシア的端緒以来、たえずこの二襞が開襞したものの内部で動いているのであって、しかしそれでも思考は自らの滞留する場所を熟考することはなく、ましてや二襞の開襞に思い及ぶことはないのである。
(太字は実際は傍点)

「自らの滞留する場所」としての「存在」で、「存在」が「二襞の開襞」を「明める」。ハイデッガーパルメニデス解釈で重きをなすのはこの部分だろうし、「二襞」「開襞」という独特の言葉も読み手を鷲づかみにする。ただ、個人的には「すべては表象作用に対して存在するものとなる」の一文の方が気になる。表象作用とその根底にあるであろう抽象化作用がすべてを「明める」。こちらの線で他の論述を読みすすめていくほうが、いまの自分の気分にはあっている。脱衣のエロスばかりでなく、着衣のエロスもまた存在する。

マルティン・ハイデッガー
1889 - 1976
ヘラクレイトス
B.C.500 or 475 - 不明
宇都宮芳明
1931 - 2007