読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

マルティン・ハイデッガー『世界像の時代』(原書 1938, 1950 理想社ハイデッガー選集13 桑木務 訳 1962)第二次世界大戦勃発前の講演

一九三八年六月九日、もとは「形而上学による近代的世界像の基礎づけ」と題されて行われた講演とそれに付随するハイデッガーによる補遺。近代の偉大さと危うさをめぐる思索が展開されているなかで、大戦前のきな臭いにおい、危機感のようなものも伝わってくる。

 

神々の退場は、宗教性を完全に排除するどころか、むしろ神々の退場によってはじめて、神々と〔人間と〕の関与(かかわり)が、宗教的な〔人間的〕体験へと転ずるのです。ことここにいたって、神々は逃げさります。こうして生じた空虚は、神話を歴史記述的(ヒストーリッシュ)に心理的に探究することによって、埋められているのです。(p7)

 

近世の根本的な出来事は、像(ビルト)として世界を征服してゆくことです。像という言葉はいまや「まえに立てながら・こちらに立てるという・形像(フォアシュテレント・ヘルシュテレンデス・ゲビルト)」を意味しています。この形像において人間は、すべての存在するものに尺度を与え且つ準縄を引くような、そのような存在するものでありうるための地位を目ざして闘うのです。ところでこのような地位が、世界像として確保され、組織づけられ、表現されるので、存在するものに対する近代的な関係は、その展開の極致においては、世界観相互の対決となって現われてきます。(p37)

 

神々が退場し、逃げさった後の世界に、容易に神話的世界像を持ち込もうとすると危ういが、超越的なものが抜けさってしまったあとの空虚とむきだしの生に徒手空拳のまま耐えるというのもまた酷だ。講演から八〇年ちょっと経った現在、世界はまた酷薄な様相を色濃くしつつある。そんな世界のなかでは、うまくガス抜きができるような抒情の回路、火種となりそうなものを湿らせる程度の抒情の蓄積を、文化的なもののなかから引き出しつつ、現状に向ける視線を多層化する。薄いベールを何層か重ねて、むき出しだけは避ける。個人にできることといったらひとまずそれくらいだろうか。

 

マルティン・ハイデッガー
1889 - 1976
桑木務
1913 - 2000