読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

マルティン・ハイデッガー『現象学と神学』(原書 1927, 1964, 1970 理想社ハイデッガー選集28 渡部清 訳 1981) 言葉をめぐる二つの著述

題名に神学の文字がはいる二つのテクストはともに言葉をめぐる思索の成果である。「現象学と神学」は学問の言葉について、「「現代の神学における非客観化的思考と言表の問題」に関する神学的討論のための主要な観点に与える若干の指摘」は詩の言葉についての考察というふうに受け止めることができる。

 

ハイデッガーを読む時は、簡単に咀嚼することができず、引っかかりつまづくことが多いので、訳者が用意してくれた訳注やその他の言葉にも目を通すことが多くなってきている。今回は「訳者あとがき」に含まれていたハイデッガーの言語観に関する記述がとても印象深く、テクスト読み取りにも大きく役立ってくれた。

ハイデッガーは、ギリシア的言語観、つまり人間が言語をもつという立場および論理的科学的思考の場を離れ、現われ来たるるものの語りに傾聴し応答するというヘブライ的言語観に近く立っていると言えよう。( 訳者あとがき」p70 )

 なるほど、待ち受けるのが基本姿勢のタイプ。容易には攻めないタイプ。そういう前提で読むとハイデッガーの言葉はよりしっくりしたものとなってきてくれる。

詩作的言表は、「そこに居合わせていること<臨在していること>」であり、そして神(der Gott)のためのものである。臨在性とは、何ものも欲せず、いかなる成果もあてにしない素直な姿勢をいう。そこに居合わせていることとは、神の現在を純粋に語るがままに語らせるということである。(Ⅱのうち「指摘への補足」p65-66)

神という語を使われると、西洋的な創造主かつ審判者たる人格神のイメージがより強く浮かんでしまうが、どちらかといえば創造自体の働きを想像したほうが「そこに居合わせていること<臨在していること>」という詩作的言表の在り方とは併存しやすい。東洋的にいえば造化とか道(タオ)とかに近いだろうし、洋の東西を問わず自然や世界といったものが、語るもの、語りかけるものであるだろう。詩人はだれよりもその語りを聴くものである。語りに共振し打ちふるえるものである。

一方、学問の領域はどうか。哲学者や神学者といった研究者たち同士の言葉はどういった関係にあるか、そういったことが語られているのが講演「現象学と神学」になる。対立と同時的にある交通の豊饒さをいかに保守展開するかという観点から学問のあり方が問いにかけられる。

学問間の交通がその純正さと活気と豊饒さとを獲得し維持しつづけられるのは、そのつど自己表明する実証的-存在者的問いかけと超越論的-存在論的問いかけが相互に、問題となる事柄に対する直覚力と学問的礼節の確かさとによって導かれるときだけであり、そして諸学問の支配権、優位、妥当性に対するすべての疑問が学問的問題自身の内的必然性の背後に引き下がるときだけなのである。(Ⅰのうち三、「実証的学問としての神学と哲学の関係」p46 )

相容れない基礎部分や基本概念の照合により、語り、反省し、自己自身の枠の内で自己自身を乗りこえていく。交通による豊かな緊張感、並立の倫理といったところか。神学的なものと哲学的なものは相互に影響はするが、それぞれの領域でそれぞれの問題を生きている。

たとえば罪という概念はただ信仰においてのみ明らかになるだけであり、そして進行する者のみが事実上罪人として実存しうるのである。(Ⅰのうち三、「実証的学問としての神学と哲学の関係」p40 )

罪は神学あるいは信仰の世界にある言葉で、哲学の領域では別の言葉(ハイデッガーは「「負い目」を対置させていた)で問いを追求する必要がある。信仰世界の実存者と哲学世界の実存者では、その内的必然性は異なるもので、使用する言葉もまた異なる。各人がその内的必然性を問い且つ問われながら、言葉が交通のための手段であることをやめないよう励みすすむのが学問的世界であるだろう。

 

目次:

まえがき

Ⅰ 現象学と神学 1927
 一、神学の実証性
 二、神学の学問性
 三、実証的学問としての神学と哲学の関係

Ⅱ 「現代の神学における非客観化的思考と言表の問題」に関する神学的討論のための主要な観点に与える若干の指摘 1964
 第二の主題に対する若干の言及
 指摘への補足


マルティン・ハイデッガー
1889 - 1976
渡部清
1940 -