読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

【ハイデッガーの『ニーチェ』を風呂場で読む】01. 初動 疼いている人、疼いている物

本日テレビは火山祭。地球の活動に人間の活動を比較してみると、人間というものはいじらしい。


ヘルダーリンの『エンペドクレス』は最後エトナの火山に身を投じたが、なにもいわずに受け入れたエトナの火山こそ、存在するものとしての偉大さを持っている。そこはゆるぎない。悲劇をも支える大地のゆるぎなさ。人間が想像可能な神の領域をも超えている。太陽はそれも超えている。ひとつひとつの現象を飛びこえて、いきなり超越的な神に問合せしたいと思うのはいかがなものかと感じさせる。科学というのは、そういった神の手前で留まることの重要性を教えてくれる貴重な人間活動だと、地球と太陽の熱源の活動を視聴ちながら考えた、NHKの番組3本。久しぶりに受信料払っていることの成果を回収できたとおもわせてくれた貴重なプログラムであった。

・グレートネイチャーSP「火山・鳴動する大地をゆく」
地球ドラマチック「太陽と人類 すべては太陽から始まった」
ブラタモリ伊豆大島の火山」

ニーチェハイデッガーヘルダーリンエックハルトが今日の映像を見たら、彼らの書くものにどんな影響が出ることだろうと思いながら、ハイデッガーの『ニーチェ』の一日目の感想をまとめようとしている。たぶん、驚きはするが、発言自体はあまり変わらないのではないかと思うが、自然現象自体の表象には驚嘆したのではないかと思う。ニーチェの「同じものの永劫回帰」とエックハルトの「神の日々の創造」という思考が地球マントルの活動の映像とともに、頭の中をめぐっている。

 

【はじまり】
一 芸術としての力への意志 《力への意志》という書物

存在者とは何であるかという問いは、存在者の存在をたずねる問いである。すべての存在はニーチェにとっては、生成である。だがこの生成は、意志の発動と活動力という性格を帯びている。そして意志とは、その本質において、力への意志なのである。
平凡社ライブラリー版『ニーチェ Ⅰ 美と永遠回帰』p20 )

 

地球も太陽も宇宙も書物である。書物は何度も書かれ、何度も読まれる。人間にとっては力や発熱といった現象とともに書物は現われる。

 


マルティン・ハイデッガー
1889 - 1976
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ
1844 - 1900
細谷貞雄
1920 - 1995
杉田泰一
1937 -
輪田稔
1940 -