読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

マルティン・ハイデッガー『有への問いへ』(原書 1955, 1959 理想社ハイデッガー選集22 柿原篤弥 訳 1970) ニヒリズムを考える

ハイデッガーの論理展開の複雑さに加えて、訳者の訳語選択の思い入れの強さも影響して、ただならぬ読みづらさを湛えたテクストとなっている。読み取れるのはニヒリズムに対する向き合い方が示されているのであろうという、その方向性。内容は2回読んでもよくわからなかった。学究者である訳者にして初読ではわからなかったと言っているのだから、そこは仕方がない。

たぶん重点を置いているだろうと思われる部分を抜き出して、後の理解につなげていきたい。
※引用文中にあらわれる訳語「有」は、一般的な訳としては「存在」となる。

 

ニヒリズムについての引用】

この客人(引用者註:ニヒリズム)は<最も不気味な客人>と謂います。というのは、彼は無制約的な意志への意志として、無郷性そのものであろうと欲するからです。ですから、彼に戸口を示して追い払おうとしても、何らききめはありません、というのは、彼は到る所ですでにとっくに、しかも目につかないままに、家のなかで彷徨しているからです。(p9)

ニヒリズムがその両者の間で遊働(シュビーレン)しつつ自己の本質を展開する有と無は、どこに帰属するのでしょうか。(p49)

ニヒリズムの超克は、いずこにもとづくのでしょうか。形而上学の忍耐のうちにである。(中略)ニヒリズムの本質とはニヒリズム的ななにものかなのではなく、しかも、形而上学それ自身の本質がニヒリズムを自己のうちに包蔵しているとき、そのことによって形而上学が古来より保つ品格は何ら損傷を受けることがない、ということに留意するとき、他ならぬこの思想を受けいれることは、あまり大きな抵抗に行きあたることもないでありましょう。(p51-52)

形而上学の忍耐は、有の忘れの忍耐である。その忍耐が、形而上学の本質に立ち向かって行きます。(p54)

ニヒリズムは、とどのつまりは意志への意志の支配に立ちいたって自己完成するのであるが、その本質は、有の忘れのうちにもとづいている。(中略)我々がこのこと(引用者注:有の忘れの忘却)に留意するならば、そのときこそ事態を転倒する応急性を経験することになります。すなわち、ニヒリズムを超克することを意欲するかわりに、我々はまずニヒリズム本質の中へ帰投(アインケーレン)することを試みなければならない、ということです。ニヒリズムの本質の中への帰投は、我々がそれを通じてニヒリズムをうしろにする第一歩である。(p64 太字は実際は傍点)

 

ニヒリズムを挑発する言葉の遊働。憩うことなき変容、自由】

言は常に、語と語の言いまわしの本質を帯びた多義性のうちをくぐり抜けて行きます。言白の多義性とは、任意に想念に浮び上って来る様々の意義の単なる積み重ねの中には決して成り立ちません。それは、一つの遊働(シュビール)のうちにもとづき、その遊働は、自己を豊かに展開すればするほど、一つの覆蔵された規律の中に、いよいよ厳格に保たれます。この規律によって多義性は、その律動を我々が稀にしか経験しない量りつくされた均整のうちで(イムアウスゲヴォーゲネン)遊働します。それ故、言白は、最高の法則の中へと拘束されています。それが自由であり、この自由こそ、ついぞ憩うことなき変容をおさめ、あらゆる遊働をいとなむ脈絡(ゲフューゲ)の中へと解き放つ自由なのです。(p66-67)

 

重要なのはニヒリズムの「超克」ではなく、形而上学の「忍耐」だということらしいが、なかなかわかりずらい教えである。

※しかし、3回目を読みながら書き出してみると、結局のところ題名にあるように「有」すなわち「存在」を問えという、ハイデッガーの根本的主張に行き当たることは分かったような気がしはじめた。最後にヘルダーリンを持ち出してくる部分については、形而上学(思索)より詩(詩作)こそ愛すべきものなんじゃないかなと思わせもするのだが、「自由」を語っている部分では、デリダの名前なども想起させた。

 

マルティン・ハイデッガー
1889 - 1976
柿原篤弥
1922 - 1989