もっぱら平安古典を読みひたり、人の情の本来的姿を観想する。生産性や効用や能率などで評価されないよわく愚かしいこころの動きを愛おしみ伸びやかにさせる。言葉によるこころの浄化と保全の運動、といったら「漢心」っぽくなってしまうだろうか。
すべて人の情(こころ)の自然(じねん)の実(まこと)のありのままなるところは、はなはだ愚かなるものなり。それをつとめて直し、飾りつくろひて賢げにするところは、情を飾れるものにて、本然の情にはあらず。儒仏の教へは、人の情の中に善なるところを育て長(ちょう)ぜしめて、悪なるところをば押へ戒めて善に直さんとするものなり。さてその教へによりて、悪なる情も直りて善に化することあるなり。歌・物語は、その善悪・邪正・賢愚をは選ばず、ただ自然と思ふところの実(まこと)の情をこまやかに書きあらはして、人の情(こころ)はかくのごときものぞといふことを見せたる物なり。それを見て人の実(まこと)の情を知るを、「物の哀れを知る」といふなり。(『紫文要領』巻下 新潮日本古典集成『本居宣長集』p204-205)
【付箋箇所】
46, 49, 116, 129, 137, 160, 204, 211, 226, 229
本居宣長
1730 - 1801
日野龍夫
1940 - 2003