読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

マルティン・ハイデッガー「ニーチェの言葉・『神は死せり』」(原書 1950 理想社ハイデッガー選集2 細谷貞雄 訳 1954)反プラトニズム、形而上学の死を語る哲学

価値について語ることが広く行われはじめたのは十九世紀になってから、とくにニーチェ以降の現象であるとハイデッガーは指摘する。なるほど、神が生きていた時代には神と神の体系を語っていればよかった。それが失効したときに、新たな価値をみんなが探しはじめたということだ。

カントがまだ行っているように感性的世界をやや広い意味で自然的(形而下的)世界と名づけるならば、超感性的世界は形而上学的世界である。『神は死せり』という言葉は、超感性的世界は影響力を失っている、ということを意味する。それはもはや生を恵まない。形而上学は、すなわちニーチェにとっては、プラトニズムと解されたヨーロッパ哲学は、終った。ニーチェは彼自身の哲学を、形而上学に対する――すなわち彼にとってはプラトニズムに対する――反対運動と解している。(p13)

 『神は死せり』の言葉とともに、ニーチェは「超人」「力への意志」「永劫回帰」の思索に向かう。その同時代に一般的な動向はいかなる方向に向かったのか? それについてハイデッガーは次のように書く。

人間は蜂起する。世界は対象となる。すべての存在者のこの蜂起的対象化の中で、第一に表象的作成の自由処理に任されなければならないもの――この大地――が、、人間的な定立と反対定立(分析、対決)の中心へ押し出される。もはや大地そのものさえ、人間の意志において無条件な対象化として組織化される攻撃の対象として現われうるすぎなくなる。自然は――存在の本質からそう意志されているゆえに――いたるところ、技術の対象として現われている。(p61)

 「攻撃の対象」「技術の対象」となってしまった「大地」「自然」を、ハイデッガー自身は痛ましい想いで見ている。「攻撃」や「技術」では「存在」には届かない。「存在」に届かないなかで「処理」だけしているようでは、けっして生には恵まれない。ハイデッガーが「技術」という言葉を用いるとき、全否定には向かわないものの、恨めしさの念がいつも底にこもっている。

 

【付箋箇所】
3, 4, 13, 18, 25, 26, 34, 37, 42,49, 57, 58, 60, 61, 62, 64, 70, 72, 74, 76

 

マルティン・ハイデッガー
1889 - 1976
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ
1844 - 1900
細谷貞雄
1920 - 1995