読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

小崎哲哉『現代アートとは、何か』(河出書房新社 2018) マルセル・デュシャンのレディ・メイド以後のアートとの付き合い方について

「美」とはなにか、ということは別に置くとして、現代アートはもはや「美」を志向していない、という現実にとどめをさしてくれた貴重な一冊。確かにデュシャンの作品集は所有していてもあまりワクワクしない、レディメイドの複製品という印象が強い。デュシャンの名があるため辛うじて商品として成立しているような危うい存在。ただ、安定してしまってはおしまいで、危うさがあるからこそ辛うじてアートとして存在している。

美しさを志向しないとことにあらわれる次元の異なる「美」の存在。一般的に美しいという判断基準にそわなくてもよい制作の自由と、美の基準のないところで芸術と名乗ることの基準のない難しさが、制作者と鑑賞者を浮遊させる。

現代アートはもはや「美」を志向していない。だから、現代までのアートに「美術」という訳語を当てはめるのはよいとしても、「contemporary art」を「現代美術」と訳すのは実情に即していない。(中略)スキャンダラスな素材も、抽象的な「指示」も、既存の作品のありようとかけ離れているカレーパーティも、すべては(感性とともに)知性を刺激する。近代以前の美術にも物語や教訓や寓意などの様々な情報が埋め込まれてはいたが、非網膜的な現代アートに内在し、鑑賞者の想像力に読み取られるべき詩的情報の種類と量は、過去の作品に比べて桁違いに多い。「現代美術」ではなく、強いて言えば「現代知術」と呼ぶべきだろうか。中には奇術や詐術としか思えない駄作もあるけれど。(p286)

 

制作者の作品創造のコンセプトに同調できないこともあって、ゴミとしか思えない作品も多々あるということは、もう致し方ない事実ではあるが、それでもアート作品は作られ、鑑賞者は懲りもせずに新たな刺激があるかも知れないと新しい作品に探りを入れる。何もしないということを選択できない業のようなものがある。その業のようなものの存在を納得させるため、理論的にはデュシャンではなくベケットの言説が召喚される。「するべきことが何もない」という人間の運命を提示する文学と美のない世界でのアートの運命の並行性。あえて何もすることは何もないけれど、何かをしてしまう人間の宿命の中での、表現の行為の積極的表明。確実に澱は残る行為。しかしその澱は無ではない。そこに辛うじて意味が発生するのであろう。

※ちなみに著者の小崎哲哉が本書でいちばん評価する現代アート作品は内藤礼西沢立衛「母型(豊島美術館)」(2010)。だれも、文句のつけようのない選択。意外と保守的なので立論も万人向けなのかもしれない。


【付箋箇所】
94, 146, 154, 189, 247, 262, 284, 286, 355


小崎哲哉
1955 -
マルセル・デュシャン
1887 - 1968