読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

マルティン・ハイデッガー『アナクシマンドロスの言葉』(原書 1950 理想社ハイデッガー選集4 田中加夫 訳 1957)「事物がそこからしてその生成を持つところのものへと、それらは又必然的に没落しなければならない」

掲題のアナクシマンドロスの言葉は100頁の思索を経てハイデッガーによって以下のように訳し直される。

「収用」に従って。即ちそれらは、「不正合」の(克服において)「正合」と、それ故又相互への「配慮」とを〔これに〕帰属させる(p114)

 「存在するもの」と「存在」との区別をつけろという、いつもの教え以上のややこしさとなっているが、言わんとしていることの核にあるのは「存在」の明るみに出すはたらきと紛らわしくするするはたらきの混在する様態に思いをはせよということであるらしい。

人間の過誤ということは、要するに「存在」の明るみがそれ自身を隠すことに対応して起る。(p39)

「存在」は、存在するものの中へと自己をあらわにすることにおいて、かえってそれ自身をくらますものである。(p40)

「エネルギーが物質化するとエネルギー自身は見えなくなる」とか「抽象化作用は抽象物を析出した後ではそのはたらき自体は見えなくなる」とか言ってくれると分かりやすいが、ハイデッガーのいう「存在」は、そういった物理学的現象や精神作用とはまた異なっていそうだ。「存在」やそれと同じともいわれる「無」は、「存在するもの」が属し立ち上がってくる場のようなもので、人間存在や人間の認識作用とは独立してあるような論述のされ方になっているような印象のほうがこの論文においては強い。

「無」の場所の番人ということと「存在」の牧人というこことは、全く同じことである。人間がこのようなものとなり得るのは、只その「現・存在」としての脱・閉鎖性(Ent-schlossenheit)によってであるに過ぎない。
(脱・閉鎖性の訳注)人間存在が「現・存在」として、本質的に自己自身の内に、更に言えばその都度自己の対象である限りでの、存在するものとの関係の内に閉じこもることを脱していること。(p65)

人間自体は「無」の場所や「存在」を持った者ではなく、それらの番人になり得るものにすぎない。だから「無」や「存在」は「現・存在」とは別にあるような書かれ方をしているのだが、先に読んだ『形而上学とは何か』などと考えあわせると、認識作用の根幹にあるものとも考えられそうなのである。この辺の記述の曖昧さが理解の飢餓感を生んでいる。この曖昧さについて自分のなかでどうにかけりをつけたいという思いが、いま、ハイデッガーを読みすすめるためのエンジンになっている。

【付箋箇所】
2, 39, 40, 47, 49, 52, 55, 65, 66, 69, 114, 124, 127

マルティン・ハイデッガー
1889 - 1976
アナクシマンドロス
B.C.610年頃 - B.C.546年
田中加夫
1926 -