読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

マルティン・ハイデッガー『哲学とは何か』(原書 1956 理想社ハイデッガー選集7 原佑 訳 1960) 驚異というパトス

まだ若いうちは恐怖はあっても驚異はなかったが、老眼が出はじめた二年前くらいから、恐怖も驚異も共に感じる精神状態になってきた。そのためもあってか、哲学書もわりとよく読むようになってきた。老いはじめてはじめて知るようになった、存在していることの驚異というものがある。おお、崩れはじめているけどまだ生まれてからのつづきを生きてるよといったなんていうこともない驚き。

驚異は哲学をにない、あまねく支配しています(p32)。

驚異は、ギリシアの哲学者たちにとって存在者の存在へと言い応ずることがその内部において保証されていた気分であります。(p34) 

崩れはじめたいま、ようやく自分とある程度和解した感じ。諦めも込めつつ、まあ、まあまあかなといったところ。そして、いまどうなっててこれからどうしたらいいだろうかと自分に尋ねながら、小さく調整している時間に苛立ちを感じない感じ。「言い応ずる」という受動的なものいいは、だから、最近だからこそ意識にも引っかかってきてくれるようになった言葉のひとつ。

哲学は、哲学者が存在するかぎりにおいて、存在者の何であるかを探求します。哲学は、存在者の存在への、すなわち存在に関しての存在者への途中にあります。(p19-20)

 

存在者の存在の言いかけに言い応ずるところの、特別に引受けられて伸展する言い応じが、哲学であります。哲学――その何であるかを、私たちは、どのように、どのような仕方で哲学が存在する〔存在せしめられる〕かを経験するときにのみ、知りわきまえます。それは、存在者の存在の声へとおのれ〔の心〕を合わせ規定する言い応じという仕方において存在するのです。(p37) 

 

驚異をベースに、驚異の有様に促されて、それに適う言葉を紡ぎあげること。思索(哲学)と詩作の親近性と生み出される言葉の差異に意識を向けること。生産-消費のサイクルからは外れた、浪費や消尽の行為であるかもしれないことを受け容れつつ、考え感じる言葉の動きに身を沈めてみること。計算し処理することにとどまらない「悦ばしき知識」は、そこから顔をのぞかせる可能性が高い。

 

【付箋箇所】
19, 32, 34, 35, 37, 38, 56, 67

マルティン・ハイデッガー
1889 - 1976
原佑
1916 -1976