2020年現在、ポール・クローデルの詩を日本語訳で読むのはなかなか難しい。日本とのかかわりも深い元日本大使の詩人の扱いとしていかがなものかと思いはするが、読者がつかないのだろうから資本主義の世の中では致し方がない。あとはクローデル好きの現代仏文学者の活動に期待することにして、一読者としては触れうるかぎりの詩作に触れようとすることで、偉大な詩人クローデルへの敬意の念を表す。
※今回「上田敏全訳詩集」岩波文庫の収録作3点は除外。
白水社刊、山内義雄訳『フランス詩選』はポール・クローデルの『東方所観』から20篇を訳出+能楽台本「女と影」
筑摩世界文学大系は山内義雄訳『東方所観』の抄訳に加え、渡辺守章訳の「流謫の詩」「詩神讃歌」「聖寵であるミューズ」を収録。
2周してクローデルの詩を安息と創造ということで落ち着かせようと思ったのは山内義雄訳『フランス詩選』のおかげ。劇作家のクローデルの作風と山内義雄の『フランス詩選』の選択方針とは相容れないなかでの『東方所観』の詩の選択で、慌てず読むと「安息」がキーワードとなっていることがなんとなく読み取れた。激しい劇作の根底に潜んでいる安息への信頼といったものが詩作においてはより色濃い形で表現される傾向にあるように思えた。
第一の鐘の音は大空の高みに鳴りわたり、仄ぐらい入日のころには、第二の鐘の音が、漫々と泥をたたえた揚子江の水底に響き鳴りわたるのが聞えるという。(山内義雄訳「鐘」より)
香こそはわが詩のすがた。半ばは灰、半ばはけふり。(山内義雄訳「短唱」より)
詩人としてのクローデルと劇作家としてのクローデル、現在より受け入れられやすいのは荒々しさを表に出している劇作家としてのクローデルだろう。極限までのエネルギーの奔出を描くクローデル。それに対し詩人クローデルは無能力の状態に身をまかせているようなところがある。ブランショはクローデル論の注記でそのことを指摘している。
クローデルのなかには思考の上での残忍さがあって、それは恐らく彼の劇作家としての天分を支えているものであり、彼がそれを完全に展開しなかった事を遺憾に思うことができる類のものだ。(ブランショ「クローデルと無限」原注5)
クローデルのうちの詩人は、霊感の迸しる言葉で、無能力の状態が――不可能性の状態が――詩の力の尺度であることを示し得た。(ブランショ「クローデルと無限」原注6)
神のわざのもとにあるこの世界の創造もしくは労働とそれに対する安息の二様の時。その二様の世界の姿と詩人の歌う姿を「流謫の詩」は描き出している。
働く日にはその隙のない心くばりを、安息の日には、遂げられた御業を。
こうして、詩人よ、お前が歓びのうちに万物を数えあげて、
一つ一つの物の名を発するときに、
父のようにして、その名を神秘のうちに、その物の原理に根ざして呼ぶのだ、かつてお前が
その創造に与ったごとくに、お前は今、その現存に力をかしている。
言葉とはすべて、繰り返すこと。
これこそが、お前が沈黙のうちに歌う歌、これこそが至福の諧調、
・・・
おおよそ日本的ではない発想と、詩語の発揚におののきつつおごそかに拝す。思考と行動の残酷さと無力。中間のない厳しさ。
ポール・クローデル
1868 - 1955
山内義雄
1849 - 1973
渡辺守章
1933 -
モーリス・ブランショ
1907 - 2003