読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

マルティン・ハイデッガー『形而上学入門』(原書 1935, 1953 理想社ハイデッガー選集9 川原榮峰 訳 1960) ナチス賛同の痕跡と戦後も考えを変えないハイデッガー

1935年夏フライブルク大学での講義テキストをもとに内容は変えずに文言の体裁に手を入れて1953年に出版。削ることも注記を加えることもできたであろうに、戦時期のドイツの状況とナチスについての発言部分はそのままの状態で残している。アドルノなどを筆頭に反発する人物が多く出たことも納得できる著作の姿となった。

 

ナチス賞揚箇所】

すべて、こういうもの(印象者註:数多ある価値概念に関する文献)が、哲学だと自称している。いわんや、今日、国家社会主義ナチス)の哲学として横行しているが、この運動の内的真理と偉大と(つまり地球全体の惑星的本質から規定せられている技術と近代的人間との出会い)には少しも関係のないあの哲学のごときは、「価値」と「全体性」とのこの濁流の中で釣りをしているのである。
(Ⅳ「存在の限定」 p252)

 「この運動の内的真理と偉大」と言っている。

 

【ドイツ語の優位性】

ギリシア語は(思考の可能性という点からみて)ドイツ語と並んで、最も強力であるとともに最も精神的な言葉だからである。
(Ⅱ「「ある」という語の文法と語原学とによせて」 p75 

暗に精神的に劣る言語があると言っている。

 

【ドイツ民族の危機と優位性】

われわれは万力の中にいる。われわれドイツ民族はまん中にいるので、万力の一番きつい重圧を経験している。われわれは最も隣人の多い民族であり、したがって最も危険にさらされた民族であり、そのうえさらに形而上学的な民族である。われわれはこの天命を覚悟しているのだが、しかしこの天命からわが民族が自分の運命を成就するとすれば、それはただ、まず自己自身の中に反響を、この天命の反響の可能性を作り出し、自己の伝統を想像的に把握するときだけであろう。これらすべてのことは、歴史的な民族としてのわが民族が、自己自身および、ひいては、西洋の歴史を、それの将来の出来事の中心から、存在の力の根源的領域へと取り出して置くことを含んでいる。ヨーロッパに関する重大な決定が破壊の方向をもって行われてはならない以上、それはただ、新しい歴史的精神力を中心から取り出して展開することによって行われうるだけである。
(Ⅰ「形而上学の根本の問い」 p53-54)

 暗に精神的に劣る民族がいると言っている。

 

ハイデッガーの世界状況に関する認識】

ロシアもアメリカも形而上学的に見ればともに同じである。それは、狂奔する技術と平凡人の底のない組織との絶望的狂乱である。地球のすみからすみまで技術的に征服されて、経済的に搾取可能になり、どこで、いつ、どんな事件があろうと、それがみな思いどおりの速さで知られるようになり、フランスの或る国王暗殺計画も、東京の交響楽の演奏会も同時に「体験」することができ、時間とは、かろうじて速さ、瞬間性、同時性であるにすぎず、歴史としての時間はあらゆる民族のあらゆる現存在から消え去ってしまい、拳闘家が民族の偉人と思われ、何百万という大群衆の数が勝利であるかのようになっているとき、――このとき、まさにこのときにあたって、なおかつ、この喧騒をよそに、なんのために? ――どこへ? ――そして何が? ――という問いが幽霊のように襲いかかって来る。
(Ⅰ「形而上学の根本の問い」 p53)

 2020年の今のほうが「絶望的狂乱」の状態は狂乱者全員が倦み果てても捨てきれない程度に進行してしまっているかもしれない。政治的なプレイヤーもロシアとアメリカの二強だった時よりも複雑化して解きほぐしがたくなっているような印象がある。決定的な打開策を誰も持っていない状況で、前大戦時の記録や文献に触れておくのは、思考の切り口の単純化を避け、選択のパターンに意識的になるために必要なことであると思う。熱狂的にも冷笑的にもならずに小さく考え感じ続けるために、伴走者として記録を利用する。

 

政治的発言部分についての引用と感想は以上。

 

ところで、本書の本来の主題である、存在とはどういったものかに対するハイデッガーの教えは以下にまとめられる。

 

ハイデッガーによる存在の限定(被規定性)の図式と解説】

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存在は生成に対立しては、滞留である
存在は仮象に対立しては、滞留する典型、常に等しいものえある。
存在は思考に対立しては、根底に横たわるもの、目の前に既にあるものである。
存在は当為に対立しては、当為的なもの、まだ実現されていない場合もある詩、既に実現されている場合もあるが、とにかく、そういう当為的なものとして、そのつど前に横たわっているものである。
滞留、常に等しいこと、目の前に既にある事、前に横たわること――これらは根本的にはみな同じことをいっている、すなわち存続的現存在、 ousia としての on である。
(Ⅳ「存在の限定」p256)

 

形而上学入門』での「存在」の図式的理解をベースにすると、「存在」は人間にのみ関わる概念ということになろう。「存在」の意味は詰まるところ「存続的現存在」というのだから、人間なくして存在しないものである。自然科学が探究すべき現象のようなものではない。

 

【付箋箇所】
9, 25, 28, 32, 34, 38, 53, 59, 62, 63, 66, 72, 75, 79, 82, 109, 134, 135, 136, 140, 146, 151, 194, 201, 205, 219, 226, 235, 237, 252, 256

 

形而上学入門』目次:


Ⅰ 形而上学の根本の問い
Ⅱ 「ある」という語の文法と語原学とによせて
 1「ある」という語の文法
 2「ある」という語の語源学
Ⅲ 存在の本質についての問い
Ⅳ 存在の限定
 1存在と生成
 2存在と仮象
 3存在と至高
 4存在と当為
 


形而上学入門』を読むには、平凡社ライブラリー版が一般的。

www.heibonsha.co.jp

 

マルティン・ハイデッガー
1889 - 1976
川原榮峰
1921 - 2007