読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

【ハイデッガーの『ニーチェ』を風呂場で読む】08. 無 存在と同じくらいにゆらぎをもたらす概念としての無

これより第二期講義、「二 同じものの永遠なる回帰」。

ハイデッガーにとって「存在」はあるということの根源、「無」は「存在」に対立しているもの。「存在」という概念にゆらぎが発生すれば、対立概念の「無」もゆらぐ。光と闇が截然とわかれることがないように、存在と無の境も明確にあるかどうかは分からない。普段分からないということは、普段という時においては境はないほうの確率が高めなのだと思う。

ニーチェ形而上学の根本思想としての永遠回帰の教え
回帰説の成立
回帰説についてのニーチェの最初の伝達

われわれはまた、生成するもの(発生し消滅するもの)をも存在者と呼ぶ。なぜなら、それはもはや無ではなく、あるいはまだ無ではないからである。われわれはまた、仮象(現象や詐りや虚偽)をも存在者と呼ぶ。もしこれらが存在していないとしたら、欺き迷わすことはありえないであろう。《存在者の全体》という言葉には、これらすべてが含まれている。それどころか、それの限界、すなわちまったく存在しないもの――無――さえも、やはり存在者の全体に属している。なぜなら、後者がなければ、いかなる無もありえないだろうからである。(p329-330 太字は実際は傍点)

無。部分においての欠如ということはイメージできるが、無は厳密を期そうとすると途端にイメージ困難なものとなる。無の基底に時間と空間が出てきてしまうので、そんなもの本当の無なのかという疑問が湧いて消えようとしない。存在の対立概念としての無、否定神学的にしか浮かび上がってこないものなのではないかと思う。

存在と無ハイデッガーニーチェ解釈に従うと、永劫回帰の思想においては少なくとも悲劇的なものと存在者が存在する。そこに眼を向けないと無が待っている。

《Incipit tragoedia》

ギリシア悲劇でも、まず《悲劇的葛藤》が《心理的に》伏線をしかれて、結節が作られる、などということはなくて、ギリシア悲劇が始まるときには、普通に《悲劇》と受けとられるような事件はすべてとっくに起こってしまっているのである。悲劇の中で起こるのは、もう没落しかない。《しかない》と、われわれは誤って言う。なぜなら、今こそ本当の主題が始まるのだからである。いかなる行為も、《精神》と《思想》がなければ――実は無なのである。(p337)

文章表現において無が用に帰せられるときの姿はかなり幅がある。曖昧さが無にまといついて無の意味は膨張する。


マルティン・ハイデッガー
1889 - 1976
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ
1844 - 1900

細谷貞雄
1920 - 1995
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1937 -
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1940 -