読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

プラトン『ソクラテスの弁明』(田中美知太郎訳) 死刑の宣告を前に死んでもいいかと思っているソクラテス

ソクラテスには神託がある。間違ったことを選択しようとすれば神託が止めに入るということを経験しているので、神託が止めない限り自分は正しい行いをしているという確信を持っている。人と共有できない垂直的な信仰のようなものだ。
する行為は正しく、誰よりも智恵があると神々に保証されているので、ソクラテスが言っていることは正しくても、一般人にはリアルさに欠ける。もちろん21世紀の他国の読者も、正しいかもしれないけど、世界が本当にこうあるという確信には欠ける。残念ながら、あやしみつつ参照するくらいのことにしかならない。世界よ変われと思いつつ読んでいても、世界に対する態度はそう簡単には変わってはくれない。

わたしにいつも起る例の神のお告げというものは、これまでの全生涯を通じて、いつもたいへん数しげくあらわれて、ごく些細なことについても、わたしの行なおうとしていることが、適当でない場合には、反対したものなのです。ところが今度、わたしの身に起こったことは、諸君も親しく見て、知っておられるとおりのことでして、これこそ災悪の最大なるものと、ひとが考えることかもしれないことですし、一般にはそう認められていることなのです。ところが、そのわたしに対して、朝、家を出て来る時にも、神の例の合図は、反対しなかったのです。(中略)つまり、今度の出来事は、どうもわたしにとっては、善いことだったらしいのです。そしてもしわれわれが、死ぬことは災悪だと思っているのなら、そういうわれわれのすべての考えは、どうしても正しくはないのです。何よりも、わたしの身に起こったことが、それの大きな証拠です。なぜなら、例の神の合図が、わたしに反対しなかったということは、わたしのこれからしようとしていたことが、何かわたしのために善いものではなかったなら、どんなにしても、起こりえないことだったのです。(40A - 40B)

 神託とソクラテスの関係は良好で、苦しみや悩みは生涯で発生していない。これは旧約の預言者たちと神との関係とは異なっている。マックス・ヴェーバーが『古代ユダヤ教』で論じていたところでは、旧約の預言者たちは神からの預言を望んではいなかった、どちらかといえば避けたかった。ヨナは預言を受けた後、民衆に伝えることをきらって逃げてさえいる。これは神の言葉の性質の違いによるところもあると思う。ギリシアの神のソクラテスに対するお告げは個人の行動にかかわるもので、従っていれば必ず善いことがおこる。旧約の神のお告げは民族の命運にかかわるもので、畏れ従い行動を改めなければ禍がおこる。預言を重く受け止めて禍を免れても、はじめから禍がおこらなかったであろう疑いが民衆側から立ち上がってくることさえある。ベースにあるのが平安清浄か災厄かという違いもある。世界をどちらかというと災厄が多い場所と考える種類の人間にとっては、どちらかといえば哲学者ソクラテスよりも預言者ヨナの方にシンパシーは湧いて来る。見えがたい世界のなかでの人間大の足掻き。ソクラテスの方は明視の中で超越してしまっているので、同じ土俵に立っている人間とは考えにくく、シンパシーはなかなか起こりにくい。

 

【付箋箇所】
21A, 21D, 21E, 24C, 28D, 31D, 31E, 32C, 33A, 34A, 34D, 35C, 36B, 37E, 39A, 39C, 40A, 41D
※1578年のステパヌス版(パリ)のプラトン全集のページ数がふってある(筑摩世界文学大系3)

プラトン
B.C.427 - B.C.347
ソクラテス
B.C.469 - B.C.399
田中美知太郎
1902 - 1985