読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

マルティン・ハイデッガー「同一性の命題」(原書 1957, 理想社ハイデッガー選集10『同一性と差異性』 大江精志郎 訳 1961)「A=Aという型式は何を言い表しているのであるか?」

同一性の命題、この最上位の思考法則はなにを言い表しているのかという、日常的には浮かび上がっては来ない問いを問い、答えをあたえようとする講演論文。パルメニデスの言葉「同じものは即ち思考であるとともにまた存在である」を軸に、解き明かしが試みられている。

この同じものの意味に対する問いは、同一性の本質に対する問いである。形而上学の理論は、同一性を存在における根本特徴として提示する。ところが今は次のことが示される、即ち存在は思考とともに同一性に合する、そして同一性の本質は、我々が出来と名づけるところのかの結合化〔人間と存在とを結合させること〕に由来する。同一性の本質は出来の所有である。(p28)

 人間と存在とを結合させる「出来」。その閃光の中で見るものは「人間と存在との結合」。日本語に関していうならば「ある」「である」の認識の輝き。そして「出来の内で、言葉として語られるもものの本質が振動するのである」(p29)。「A」。「A」である「A」。「AはAである」。おそらく本質の震動は有限化すなわち規定化の飛躍の際に起こる震動、思考自身のおののきなのだろう。同一性の命題はその認識の輝きの言葉としての刻印であるだろう。

出来の内で、言葉として語られるもものの本質が振動するのである。かかる言葉は、かつて存在の家と名づけられた。同一性の命題は、今は同一性の本質が要求するところの飛躍を言い表わす、何故ならば、その本質は、もし人間と存在との結合が出来の本質的光の内に到達すべきであるならば、飛躍を必要とするからである。
同一性についての言表としての命題から、同一性の本質的由来への飛躍としての命題へ進む途上において、思考が変遷したのである。それゆえに思考は、現在を直視しつつ、人間の立場を超え出て、存在と人間との付置を、両者が相互に適合するところのもの即ち出来から、観取するのである。(p29-30)

 Aという認識の対象の出現。Aという存在するものの人間に対する出現。その出現は「人間と存在との結合」としての「出来」をを経て安定する。『形而上学入門』での「存在限定の図式」に当てはめると、下半分になるだろう。「出来」そのものは「生成」、命題として安定した状態では「仮象」となるだろう。

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実際の講演での一般聴衆という立場ならば、「同一性の命題」の解明の部分よりも、判りやすい技術世界批判のところだけが印象に残ってしまう可能性も高いけれど、印刷されたものを読む時は分かりにくいところにもどうにかとどまり、理解しようとチャレンジすることができる。

 

マルティン・ハイデッガー
1889 - 1976
大江精志郎
1898 - 1992