読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

稲垣良典「トマス・アクィナス『神学大全』」(講談社学術文庫 2019 講談社選書メチエ 2009) 存在と悪について

指示対象(表象の対象)として創造主や神といったものを想定してしまうと、途端に胡散臭いものになってくるが、論ずるためには言語で表現していくほかはない。


【存在】

神の創造、三位一体の子、被造物について

トマスは「禅の本質側面は自己をおしひろげ、自己を他者に分与する(communicare)ことである」というデュオニュシオスの言葉に公理的な意義を求め、それを屢々自らの議論を基礎づけるために用いる。「神はなぜ人となったのか」という問題を考察するにあたっても、「自己を他者に分与することが善の本質側面であり、したがって最高善である神に適合するのは最高の仕方で自己を被造物に分与することである」と述べている。だが、これこそ神は愛(アガペー)であるという聖書の啓示を形而上学的言語によって言い表わしたものと言えるのではないか。
( 第三章 「「交わり・即・存在」―人格[ペルソナ]のパラドックス」p72-73 )

物質化としてある分与というふうにとりあえずとらえておく。で、E = mc2で、神はEでもmでもcでもなく存在でもないところの無限の実体。


【悪】

存在の欠如、存在に付帯して空虚化するものとしての悪

「害悪・罪悪」と呼ばれるものは存在論的には何らかの善に寄生し、当の全をいわば空虚化しているものである。つまり、悪はじぶんがとりつき、蝕み、空虚化する善があってはじめて存在するのであって、それ自体としては存在しない、というのが、「悪は存在の欠如」というトマスの「悪」の定義の真意なのである……。
( 第五章 「「悪」の問題」 p99-100 )

 存在するものは善い、しかし、何ものかの欠如によって存在が空虚化しているのが悪。欠如を存在に付帯させてしまっているのは自由意志の自由とされている部分。被造物の中に無というものは含まれないので、自由意志における自由の充填の不足した状態が、言われるところの悪、ということだと思っておく。

 

「おわりに」で日本の宗教界、思想界の情況としてエックハルトへの関心が高いことによせてアクィナス―エックハルトの思想継承ということが示唆されていた。さらにつづけるならアクィナス―エックハルトハイデッガーという線での存在論の系譜がありそうだ。

 

目次:
はじめに―『神学大全』をどう読むか
第一章 挑戦の書としての『神学大全
第二章 神の問題―「五つの道」の意味
第三章 「交わり・即・存在」―人格[ペルソナ]のパラドックス
第四章 創造と宇宙論
第五章 「悪」の問題
第六章 すべての人が幸福を欲しているか?
第七章 トマスの政治哲学―「共通善」の復権
おわりに―「トマス主義者」ではないトマス

【付箋箇所】
36, 69, 72, 79, 84, 93, 99, 104, 107, 111, 113, 114, 115, 140, 145

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稲垣良典
1928 -
トマス・アクィナス
1225 - 1274
エックハルト
1260 - 1328
マルティン・ハイデッガー
1889 - 1976