読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

【ハイデッガーの『ニーチェ』を風呂場で読む】13. 決断と必然 次の瞬間の自分を引受ける正しい自己愛

思惟は基本的には無言語で行われるのではなく、母国語で行われる。私の場合は日本語で、気がついたときからずっと日本語で生きている。

生活の資を得るために各種プログラミング言語SQL(構造化問い合わせ言語)のお世話にはなっていて、そのコンピュータ言語を操作する際には日本語の思惟とは異なる思惟の運動が出てきているかもしれないが、基本的には日本語をベースに活動生活している。私が創造しているものの多くは日本語だ。

他に創造しているものといえばコンピュータ言語のコードと毎日の食事に出すための料理くらい。まあ、毎日同じようなことをしているが、何もしないというわけにはいかないし、何もしないということをいつまでも決断し持続させることも身体からの要請があるため到底できない。そもそも、眠ってしまわない限り意識に言葉はほぼ自動的に浮き上がってくるし、排泄も補給も限界が来れば無意識的にでもする。

ことさら思想や学問ということでなくても、毎日が「つまらない」「何やってんのかな」というニヒリズムとの戦いであるといえばいえる。ハイデッガーいわく「同じものの回帰を思惟することは、《すべては同じである》との対決、《なにをする甲斐もない》との対決、すなわちニヒリズムとの対決を必須条件としているのである」。日常生活の中で思い立つことがあれば、そこにはちいさな「ニヒリズムとの対決」があり、永遠回帰の必須条件は簡単に充たされる。

あとは次の瞬間も自分自身であることに変りはないということをAmor fati(必然への愛)として享受できるかどうかに関わってくる。創造というにはあまりにも卑小だが私自身や私の意識は次々に創造されている。それは小さいながらも、この瞬間における私の運命である。

「fatumは、ただその場に居合わせてそれに見舞われるだけの人にとっては、乱雑無残で失意のみを与える」。「失意」と付き合うのはしんどい。体力と気力がいる。「しかしfatumは、創造する者として(そしてあくまで決断せる者として)それに帰属していることを自覚し理解している人にとっては、崇高であり最高の歓喜である」。

連続的に決断し続ける状態がどういうものであるかは明瞭に思い浮かんでは来ないものの、意識の言語活動のパフォーマンスがめざましいものであれという願いや祈りは気がつけば存在している。願いや祈りはおそらく決断ではない。意識の言語創造も普段は自動的な再生産といった方がよいだろう。私という現象の中で「ただその場に居合わせてそれに見舞われるだけの人」が再創造されている。

この閉塞感を避けるために、私は行動や決断に近いと信じる読書を多用することになった。ショーペンハウアー的な「考えないための読書」という側面も大いにある。他の選択より簡便だということもある。自分自身に歓喜することはほぼないが、人の書いた言葉の力で喜びや驚きをシェア出来たのではないかという思いに浸れる機会はいくたびか発生している。

意識においては鮮やかな言葉をと思いつつ読書をつづけるのがわたしにとっては普段使いできる決断で、成果は新たに注入された生きた言葉とそれに反応して浮かび上がってくる意識の言葉。「崇高であり最高の歓喜」には届かないが、ぬるめの自己愛は充たしてくれることが多い。だからこそ次も何か読んでみようかということが起こる。

読書とブログの雑文書きは永遠回帰のわたしなりの実践なのだろうと思う。自分で書いたものを読み返してみて、何だこれはと思うこともあるけれど、引き受ける姿勢を何とかとれていれば「何だこれは」という刺激は与えてくれる。

そしてこの読書と雑文書きという行為は、分業の回路からも外れているものなので、日常の労働とは別の思いも生み出してくれている。覚束ないながらも楽しみにつながる確率の高い行為。

 

《悦ばしき学問》の時期の手記の回顧
ツァラトゥストゥラ期の手記
力への意志》の時期の手記
回帰説の形態
回帰思想の領域 ニヒリズムの克服としての回帰説
瞬間と永遠回帰

この思想においては、何が思惟されるべきかは、いかに思惟さるべきかという様式を介して、思惟する者に打ち返してきて、彼に迫ってくる、――そしてこれもあくまで、思惟する者を思惟さるべき事柄の中へ引き入れんがためなのである。永遠を思惟することは、瞬間を思惟することを要求し、すなわち自分であることの瞬間へ身を移すことを要求する。同じものの回帰を思惟することは、《すべては同じである》との対決、《なにをする甲斐もない》との対決、すなわちニヒリズムとの対決を必須条件としているのである。(p528-529)

 

形而上学的な根本的境涯の本質 西洋哲学の歴史におけるそれの可能性
ニーチェ形而上学的な根本的境涯

Amor fati(必然への愛)とは、存在者のもっとも存在的なものへ聖化しつつ帰属せんとする意志である。fatumは、ただその場に居合わせてそれに見舞われるだけの人にとっては、乱雑無残で失意のみを与える。しかしfatumは、創造する者として(そしてあくまで決断せる者として)それに帰属していることを自覚し理解している人にとっては、崇高であり最高の歓喜である。この自覚知は、あの愛の中で必然的に躍動している知と別物ではないのである。(p556-557)

 
これにて『ニューチェ Ⅰ』、ひとまず終結

 

 

マルティン・ハイデッガー
1889 - 1976
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ
1844 - 1900

細谷貞雄
1920 - 1995
杉田泰一
1937 -
輪田稔
1940 -