一読、またドイツ民族の優位性についての言説かと感じたが、ゆっくり読み返してみれば、今回の読みの対象の講義部分は特定民族の優越という主張の色は薄い。「永遠性」を生の眼目に置く西欧的緊張の世界の話をしているということの確認らしい。今や世界中どこでも近代西欧の波をかぶって影響を受けている人間ばかりだけれど、東洋人である自分のことを振り返ってみると、永遠性といわれても、水平に流出してひとつのものに溶けこんでいく悠久の永遠性の方に親しいところがありそうだ。すべて残る永遠と、すべて消えてしまう永遠の違いとすれば、すべて消えてしまうほうに親和的な心性だ。
《論理学》としての西欧形而上学
真理と真なるもの
《真の世界と仮象の世界》の対立-価値関係への還元
「われわれは、われわれの維持条件を存在一般の述語として投影してきた」とニーチェは言う。《われわれの》維持条件とは――たまたま今生きている人間たちの生の条件ではなく、人間一般の生の条件でもなく、西欧世界の人間の、つまりギリシア的、ローマ的・キリスト教的、ゲルマン的・ロマン的・近世的な、――西欧的《世界》の人間の条件を指している。この人間類型は、何らかの有様で、第一に且つ終局的に、存続的存立、存続、そして永遠性を眼目にしているので、このように彼らの生の眼目となるものを、同時に《世界》の中に、《全体》の中に移し置いたのである。
(「《真の世界と仮象の世界》の対立-価値関係への還元」p96 太字は実際は傍点)
近世西欧的な生の条件からはみ出る部分についてハイデッガーの言及はない。近世西欧的世界におさまり落ち着くことのない非西欧的な生の条件は何だろうか、ということは、非西欧的なものを持ち合わせている者が気にして考えていかなくてはいけない。さかしらを忌避し排するやまとごころにも軸足を置き、時に重心もあずけるという、節操がないといえばまったくないない、くらげなす二十一世紀日本人中年の人間としての条件。九鬼周造とか読み返してみるか……
マルティン・ハイデッガー
1889 - 1976
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ
1844 - 1900
細谷貞雄
1920 - 1995
加藤登之男
1919 -
船橋弘
1929 -