読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

【ハイデッガーの『ニーチェ』を風呂場で読む】17. 認識 実践的要求によって規定され事後的にあらわれる認識

ハイデッガーは有限性や事後性といった人間の制限に関する感度がかなり高い。そこから歴運とか宿命とか運命にもとづいた決断とかの方向に引っ張っていかれることには第二次世界大戦後の世界を生きる人間としてはかなり抵抗があるけれど、人間の規定にあるものの探求については、私は結構好きなのかもしれない。
本当は別の思索家の本を読むための準備としてハイデッガーを読みはじめただけなのに、1ヶ月以上も読みつづけていられるのはハイデッガー自身の思索とハイデッガー界隈の動向が死んでいない状況にあるからだろう。講義のテキストがきちんと用意され残っているのもすごい。西欧の大学制度の力というのもあるかも知れない。今の日本で、たとえば千葉雅也の講義録とか、浅田彰の講義録とか、萱野稔人の講義録とかPDF版とかでいいんで出たりはしないのだろうか。あったとしても、みんな動画になってしまうんでしょうかね。テキストの方が消費には優しいのに・・・

 

《生成》としての世界と生
実践的欲求に即する渾沌の図式化としての認識

われわれは表象において、分節された秩序ある世界に関わり合っているのだと確信するとき、われわれはこの確言によって、秩序づけと分節がすでに行われたということ、すなわち、まさしく明らかに規制的な形式の賦課とある図式化から由来するものがすでに行われたということ、そしてそれがすでに行われたのでなければならないということを、すでに打ち分けているのではあるまいか。このことのなかには、世界を表象してわれわれの前へ連れ出すという意味での認識は――表面的なことにかかずらわずに根本的に考慮するならば――、根本において、実践的要求による渾沌の《図式化》である、ということが含意されているのである。

(「実践的欲求に即する渾沌の図式化としての認識」p112 )

カオスに嵌め込む可塑性の残った鋳型自体としての認識の運動。生の条件からくる「実践的要求による渾沌の《図式化》」に由来する認識。生の条件が変われば渾沌からの異なる切り出しがあらわれてくるのだろう。

 

マルティン・ハイデッガー
1889 - 1976
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ
1844 - 1900
細谷貞雄
1920 - 1995
加藤登之男
1919 -
船橋
1929 -