読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

岡田温司『天使とは何か キューピッド、キリスト、悪魔』(中公新書 2016)境界域で活動する天使という中間的な存在

神学的な天使の考察ではなく、文化的表象、イメージとしての天使の位置と歴史的変遷をあつかった一冊。

わたしが強調しようとしたのは、天使の表象が、古来より基本的にずっと、キリスト教と異教、正統と異端との境界線を揺るがしてきた、ということである。無理やり境界線を引こうとする権威的思考にたいして、天使はしばしば抗ってきたのだ。

( 第Ⅰ章「異教の神々―天使とキューピッド」p39 )

挑戦がない限りまた墜落もない。天使の墜落とは、つまるところ、新たなことに挑もうとする人間の宿命のことでもある。

( 第Ⅴ章「天使は死なない―天使と近代人」p177 )

人間の活動の境界域でのゆらぎを投影した印象のある天使のイメージ、最終章の「天使は死なない―天使と近代人」のリルケとクレーと天使とのかかわりについての記述が、個人的には一番刺激的だった。特に、リルケ『ドゥイノの悲歌』第九歌の読み解きは強く印象に残るものだ。

言葉にできない世界や、目に見えない世界のことについては、もちろん人間は天使にはかなわない。だから、逆に「天使にはただ素朴なものを示せ」、というのだ。世代によって受け継がれてきたもの、人の手に触れることのできるもの、まなざしを注がれているもの、それらはどれも天使のあずかり知らないものだ。だから「天使に物たちを語れ。そのほうがより多くの天使の驚嘆を誘うだろう」。人の心もまた目には見えないものだが、ただそこにおいてのみ、知覚されたものたちの言葉への転身が起こりうる。( 第Ⅴ章「天使は死なない―天使と近代人」p195 )

天使は人間に対して直接には審判裁定を下さない。それにもかかわらず、ずっと人間を見ていてくれる存在として天使は想定されている。そんな天使に対しての挑戦と誘惑としての物たちについての語り。語りませんかという、リルケの誘いを岡田温司が増幅している。誘いに響きはしても、そうは簡単には語りはじめることのできない自分自身の能力にもどかしさを感じつつ、物のうえにとりあえずは踏ん張る。

 

目次:
第Ⅰ章 異教の神々―天使とキューピッド
第Ⅱ章 天からの使者として―天使とキリスト
第Ⅲ章 歌え、奏でよ―天使と聖人
第Ⅳ章 堕ちた天使のゆくえ―天使と悪魔
第Ⅴ章 天使は死なない―天使と近代人

 

天使とは何か|新書|中央公論新社

 

岡田温司
1954 -