読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

【ハイデッガーの『ニーチェ』を風呂場で読む】23. 計算 価値が存在するのは計算がされるところという指摘

価値の計算が何にもとづいておこなわれているかということについては生成の軸一辺倒なのだけれど、果たしてそこに見落としはないのかという疑問は残る。エロスに対するタナトス、生成に対する消滅への衝動といったものを考慮しなくていいものだろうか。

 

カテゴリーとしての至上価値
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価値定立と力への意志

ひとたび価値思想が出現したからには、《客観》が《主観》にとってのみ存在するように、価値は計算が行われるところにのみ《存在する》ということも承認されなければならない。《価値自体》について云々することは、無思想の表明であるか、贋金作りであるか、それともその両方であるかである。《価値》は、その本質上、《視点》なのである。視点というからには、それは点を設定し、いくつかの《点》に従って計算せざるをえない視見にとってしか存在しないものなのである。
しかし、着眼点としての価値によって眼に入れられるものは何であるのか。そのつど計算に入れられるのは何であるのか。その計算は、本質的に何に狙いをつけているのか。ニーチェは、《<価値>の視点は、……維持=昂揚の諸条件の視点である》と言う。或るものを狙って計算が行われるときには、そのつど維持と高揚を左右するもの、維持を促進ないし阻害するもの、昂揚をもたらしあるいは阻むもの――要するに条件づけるものごと――を計算に入れる必要がある。これまでに述べてきたすべてのことから考えると、われわれは維持と昂揚という言葉が力の維持と力の昂揚を指していると推測することができる。力こそは、すべてが帰着する《或るもの》であり、いわば《物》であり、それの維持と昂揚がさまざまな条件に依存しているのである。
(「価値定立と力への意志」p348-349 太字は実際は傍点)

死でなくてもいいのだが、生の各場面で終結し消尽することの昂揚に向けて価値が発生することもあるのではないかという考えが浮かび上がってくる。維持ではなく解放と弛緩もしくは消滅を目指す生や思考のベクトルも考慮されていないと価値計算のアルゴリズムとしてはどこか粗雑な感じを受けてしまう。基本軸として生の維持=昂揚があることは紛れもないが、「いくつかの《点》に従って計算せざるをえない」と書いてあるように、価値評価の計算は並列で動いていると考えた方が個人的にはしっくりくる。意識に現われるのはそのつど積分された解の突端で、諸価値は個体のなかで蠢いているというほうが本当っぽい。

力の昂揚を目指し、そのつどの力の段階の超揚を目指して計算することは、力への意志の本質である。《価値》とはまず第一に、力への意志が着眼する昂揚条件である。力への意志は、自己超揚として、けっして停滞ではない。(p349)

 「自己超揚」というところに自己の死あるいは消滅というものも埋め込まれているのかもしれない。維持=停滞ではなく維持=超揚。「力の昂揚」も波立っているイメージでなく均衡のイメージも併せ持たせればよいのかもしれない。同じ力でも動の力と静の力の現われ方の違いはありそうだ。

 

マルティン・ハイデッガー
1889 - 1976
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ
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