読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

岡崎乾二郎『近代芸術の解析 抽象の力』(亜紀書房 2018)技術で見えてきたものによって変わる人間の認識と作品制作。マティス以後の抽象絵画を中心に

素朴な画家と勝手に思い込んでいた熊谷守一が、同業者からは一目置かれる理論派で当時の最先端美術にも通じ、なおかつ海外の代表的な作家の作品にも通底し且つ質において匹敵するする作品を晩年まで作成し続けていたという指摘に、目を洗われる思いがした。マティス以後の海外の抽象絵画作品と守一の作品の図版を並べて見せられると、熊谷守一が抽象画家という括りにも入ることの可能な人物であるということに納得する。かといって守一の作品は見方を知らないと楽しめないようなものではなく、単純に愛らしく好ましい親しみのある作品でもあるというところがすばらしく、本書を読むことでますます好きな作家となった。

他に本書であつかわれる作家たちのなかでは、イサム・ノグチ(「名を葬る場処」)、中谷宇吉郎中谷芙二子親子(「明晰、曇りなき霧 晴れやかで軽快なる水の微粒子、の運動」)についての論考が特に興味深かった。

全420ページの大判の著作だけれど、中身は意外と論文の寄せ集めの印象があって思ったよりも軽い。厚さにたじろぐことなく手に取ってみると意外とやさしく接してきてくれる。文学系の話も漱石の文学論の「F+f」を中心に数多く絡んできて興味深い。

夏目漱石の文学論における「F」にせよ、T・S・エリオットの「客観的相関物」にせよ、エズラ・パウンドの「イマジズム」にせよ、その要は、もともとまとまりを持たないさまざまな感覚、感情の集合を、一つの外的対応物を(仮説しそれを)通してまとめ=代表し表現することにあった。つまり表現されることではじめて、とりとめのない感覚、感情の集まりは一つの特定の概念として定位されるということである。いうまでもなく、こうした思考にはシャルル・ボードレールから、フェリックス・フェネオンに至る、象徴主義(そしてアナーキズム)の問題群が継承もされている。見るかたちとして、すでに成立している表現(代表)はいかなるものであれ、偶有的で仮の姿(仮象)でしかありえない(必然的ではない)。言い換えれば見える姿としては代表し表現することのできない、はるかに広い潜在的な領域こそが実在する。その実在はいかに把握されうるか。その能力が象徴あるいは抽象に託されている。
( 第Ⅰ部 抽象の力 本論 4「恩地孝四郎と「感情」」p24-25 )

日本美術界の運動のなかに見る「象徴あるいは抽象」の成果。まずは図版を見て、少しでも興味を持たれたら文章を通しで読んでみるのがいいと思う。著者岡崎乾二郎の教養の深さも味わえる。


【付箋箇所】
10, 22, 24, 45, 110, 124, 149, 157, 165, 193, 202, 236, 263, 394, 400, 407, 414


目次:
第Ⅰ部 抽象の力 本論
第Ⅱ部 抽象の力 補論
 守一について、いま語れることのすべて
 先行するF
 末期の眼
 戦後美術の楔石としての内間安瑆の仕事
 明晰、曇りなき霧 晴れやかで軽快なる水の微粒子、の運動
第Ⅲ部 メタボリズム-自然弁証法
 名を葬る場処
 白井晟一という問題群 1
 白井晟一という問題群 2
 白井晟一という問題群 3
 乃木坂とポストヒストリー
第Ⅳ部 具体の批評
 批評を招喚する

亜紀書房 - 近代芸術の解析 抽象の力


岡崎乾二郎
1955 -