読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

【ハイデッガーの『ニーチェ』を風呂場で読む】24. 地球支配 時にでるハイデッガーの地がうかがえるような言葉

超人が地球を支配するという言葉だけピックアップしてくると、どうしても優生思想がちらつくが、奴隷を必要とするような主人がニーチェの超人というわけではないだろう。

ニーチェの歴史解釈における主体性
形而上学についてのニーチェの《道徳的》解釈

闘争が何をめぐって行われるかは、実は初めから決定されている。それは、いかなる目標をも必要としない力そのものなのである。それは無=目標である。これは存在者の全体が無=価値であるのと同様である。この無=目標性は、力の形而上学的本質に属している。ここでもなお目標という言葉を用いるなら、この《目標》は、人間の無条件な地球支配の無目標性である。この支配を遂行する人間が、超=人である。(中略)従来的人間は、自分を《超えた》ところに、なお理想や願望像を必要とし、それらを求める。これに反して、超人は、この意味での《超越》や彼岸をもはや必要としない。なぜなら、彼はひたすら人間自身を――しかもある特殊な観点からではなく、この地球のあますところなく開発された権力手段を駆使する無条件な力の執行の主人として――端的に意志するからである。(「形而上学についてのニーチェの《道徳的》解釈」p375 )

 「地球支配」の「無条件な力の執行の主人」というところはひとまず置くとして、「存在者の全体が無=価値である」なかで「人間自身を端的に意志する」ことがどういうことであるか、たとえば老いたり病んだりしたときに「人間自身を端的に意志する」とはどうしたことになるのか。「自分を《超えた》」状態や意味などのものを求めず端的に対応するという、以前にでてきた言葉でいえば「Amor fati(必然への愛)」や「自覚知」の行使が、端的に老いたり病んだりした場合の超人の振舞いとなるであろうか。苦しみや痛みを装飾せず、ただ単に次の一瞬の最善を選択する。

 

マルティン・ハイデッガー
1889 - 1976
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ
1844 - 1900
細谷貞雄
1920 - 1995
加藤登之男
1919 -
船橋
1929 -