読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

【ハイデッガーの『ニーチェ』を風呂場で読む】26. 自由 近世的主体の自由を誤謬可能性から定義づける

ハイデッガーデカルト省察から自由を論じている部分が興味深い。

 

デカルトプロタゴラス形而上学的な根本的境涯
デカルトに対するニーチェの態度表明
デカルトニーチェの根本的境涯の内的連関
人間の本質規定と真理の本質

誤りうるということは欠陥ではあるが、デカルトにとっては、それは同時に人間が自由であり、自分を恃んで自立する存在者であることの証拠でもある。 error こそ、かえって主体性の特徴を証拠立てるものであり、この主体性からみれば、posse non errare(誤らないことができる能力)の方が、non posse errare(そもそも誤ることができないという無能力)よりも、いっそう本質的なことなのである。なぜなら、誤る可能性がまったくないところでは、たとえば岩石などのように、真理へのいかなる関与も存在していないか、それとも、絶対的に認識する存在者(すなわち創造する存在者)のように、いかなる主体性をも――すなわち、いかなる意味で自分を拠りどころとすることをも――排除するような、真理への純粋な拘束があるかの、どちらかだからである。これに反して posse non errare(誤らないことができるという可能性と能力)は、真なるものへの関与を意味すると同時に、誤ることの事実性を、したがって非真理のなかへ巻き込まれていることをも意味するのである。
(「人間の本質規定と真理の本質」p460 太字は実際は傍点)

誤ることがある可能性のなかで、「自分を恃んで自立する存在者」、「自分を拠りどころとする」能力が自由であり、主体が「世界発見と世界探検」を実施しながら「自分を拡充し」、「世界叙述と世界計画と世界支配」を行っていくというところで、ニーチェの超人解釈につながっていっている。


マルティン・ハイデッガー
1889 - 1976
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ
1844 - 1900
細谷貞雄
1920 - 1995
加藤登之男
1919 -
船橋
1929 -