読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ジャック・デリダ『痛み、泉 ― ヴァレリーの源泉』(1971 ヴァレリー生誕百周年記念講演 佐々木明訳 )ヴァレリーとフロイト、ニーチェの親近性

ヴァレリーのカイエの読解からフロイトニーチェとの親近性を説く論考。そして自己聴解という点においてヴァレリーデリダ自身の親近性をも示す論考となっている。

源泉が何ものかとなった――これこそが不可解なことだ――とき、起源のそれ自身に対するこの遅延として時間というものが開ける。時間はそれ以外の何ものでもない。「お前の”精神”に――唇に――やって来るもの、それが逆にお前自身を変様させる。お前の今しがた発出したものがお前に向かって何かを発出し、お前の産み出したものがお前を受胎させるのだ。予見していなかったあることを言うとき、それはお前には未知の事実、一つの起源――それまで知らなかったもの――と見える。つまりお前はお前自身より遅れていたわけだ……」(『カイエ』第十二巻、二四ページ、一九二六年)。さらに別のところには、「われわれは二つの瞬間から、そしていわばある”もの”のそれ自身に対する遅延からできている」(『邪念その他』、作品集第二巻、八八五ページ、傍点=引用時太字はヴァレリー)と読まれる。

章立てを見るだけでも、デリダの攻めてる感、乗ってる感が伝わってくる。

反跳
みずからを揚棄する源泉、または源泉の切断
哲学の核心、哲学の消滅 ― 書かれたもの
出来事と他者の定常態 ― 声音
錯綜体(形式主義の問題) ― ニーチェフロイト

佐々木明訳は『筑摩世界文学大系56 クローデルヴァレリー』に収録。ヴァレリー詩作再開後の詩篇などとともに読める。
四〇歳を越えてからの中年の詩を今回ひさしぶりに読みかえしてみて、ようやく親しみが持てるようになった。時の重さやよどみを感じながらの詠嘆。同年代になってようやくわかりかけてくるというものもある。


法政大学出版局の『哲学の余白 下』には藤本一勇訳が収録されている。

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ポール・ヴァレリー
1871 - 1945
ジャック・デリダ
1930 - 2004