読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

【ハイデッガーの『ニーチェ』を風呂場で読む】28. 最後は存在に着地する ハイデッガー的永遠回帰で回帰するものは存在のかそけさ

常に存在する主体の円環的構造とそこに息づいている言葉、霊息。計算し出力する複数の身体と環世界の交感。渦巻く生存圏。

 

力への意志としての存在の投企
存在と存在者の区別と人間の自然[本性]
空虚と豊饒としての存在

およそいかなる言葉も言葉であるかぎりは存在《の》言葉なのであり、しかも、存在に《ついて》、且つ存在を《話題にして》語るという意味だけではなく、およそいかなる言葉のなかでも存在が自分を言い表わし、まさにそのようにして自分の本質を黙秘しているという意味において、存在《の》言葉なのだからである。
こうして存在は多様な対立関係においてわれわれに現われ出てくるが、この対立関係もまた偶然的なものではありえない。なぜなら、これらの対立をただ配列するだけでも、すでにそれらの内的連関を予示しているからである。存在は、最も空虚なものであるとともに最も豊かなものであり、もっとも普遍的なものであるとともにもっとも唯一的なものであり、もっともわかりやすいものであるとともにあらゆる把握にさからうものであり、もっとも常用のものでありながら、これから初めて到来すべきものであり、もっとも頼もしいものであるとともに最も深淵的なものであり、もっともはなはだしく忘却されているものでああるとともにもっとも切実に想起させるものであり、最も多く語られているものであるとともにもっとも深く沈黙しているものである。
(「空虚と豊饒としての存在 」p530-531 )

存在者を存在させるところの存在、その存在がなければ主体も世界もない。無さえもない。

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マルティン・ハイデッガー
1889 - 1976
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ
1844 - 1900
細谷貞雄
1920 - 1995
加藤登之男
1919 -
船橋
1929 -