読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

シェリー・ケーガン『「死」とはなにか  イェール大学で23年連続の人気講義 日本縮約版』(原書 2012, 文響社 柴田裕之訳 2018 )唯物論者の死生観を再確認し突き固めるのに適した一冊

NHKの白熱教室に出てきそうな大学講師の講義録。マイケル・サンデルの講義録と言われてもそれほど違和感はない。今世紀初頭に流行した一般的なスタイルであるのだろうか。寛容・非寛容の判断にいたる前段階で、厳密な吟味を経ない共存・併存が可能であるような世界を予想している、一種の信仰あるいは諦念をベースにした議論の開始点をもっているような思想世界。住み分けしきれていない、公理系併存の世界。おそらく対決することを控えた前戦闘的な圧力均衡のなかでの一つの代表的な世界側からの基本姿勢についての発信。

サンデルの場合は政治的な色合いが濃いので、歴史的世俗的限定が前提にある分、より現実的な制約を意識させるところがあるが、ケーガンの死についての倫理的考察をベースにした講義録は、思考の自由を前提とした、あるひとりの思考の傾向をベースにしているところが、受け止め方によっては非常にゆるさを感じる。唯物論的傾向をもった多くの読者には、それほどストレスなく受け入れられる著者の思考傾向も、彼岸を至高とする人間の思考には届かないし、思考傾向の違いの発生点に切り込むような議論も少ないので、各世界観のポジション定位についての議論が発生することはなく、唯物論者側優位の世界解釈が、公理系複数併存論のなかにおとなしく収まってしまうような記述が多い。読者に対しても厳しい批判的な姿勢を見せないところは、極端に言えば唯物的かつ即物的な側からの一方的なポジショントークとされても致し方ない面も多く残っていそうだ。

しかしながら、だから悪いということでもない。攻めない書物、ポジション確認の書物も大変有効だ。他の立場の人に対しては、研究材料としての良し悪しは出てくるにしても、一現実を誠実に提供している。私が読んだかぎり作者ケーガンの誠実さだけは疑いようはなかった。ある思想に誠実に対峙している人物が、教育者という立場に立ちながら、意志的に存在しているということが何より重要であるという印象を受けた。そのポジションは数少なく、誰でもなれるわけではなく、ケーガンがそのポジションを占めているのはそれなりに理由のあることだということを、300ページを超える本書を読み通してみて体感することはできた。

 

魂など存在しない。私たちは機械にすぎない。もちろん、ただのありきたりの機械ではない。私たちは驚くべき機械だ。愛したり、夢を抱いたり、創造したりする能力があり、計画を立ててそれを他者と共有できる機械だ。私たちは人格をもった人間だ。だが、それでも機械にすぎない。
そして機械は壊れてしまえばもうおしまいだ。死は私たちには理解しえない大きな謎ではない。つまるところ死は、電灯やコンピューターが壊れうるとか、どの機械もいつかは動かなくなるといったことと比べて、特別に不思議なことではない。
(「死についての最終講義 これからを生きる君たちへ」p373 太字は実際は傍点)

機械という言葉の定義やそれに付随するコノテーションの違いを認めて(もしくは括弧に入れて)、精神が身体と別に存在するか否か、彼岸の有無、もしくは此岸以外のありようが問題となってくる。此岸のみの世界か、それ以外もある世界か、此岸以外の世界が想定される(想定せざるを得ない)とすればそれは如何なる世界であるか。本書はそこまでは踏み込まない。あくまで、此岸のみの唯物論的世界で、それ以外の可能性は議論にはのぼってこない。彼岸のあるなしは本書の範疇ではなく、本書でいうところのP機能(すなわち人格機能)が、現世的にどのように成立可能であるか、持続可能であるかが問題となっている。世代交代の継承の視点はあっても、彼岸的視点の永遠のモデルは想像的な視点でしかなく、その視点も著者の思索傾向からすればすべて否定的な色合いを帯びるようになっている。最終的に何が本当かということは、現世的ロジックで詰めていける観測可能な唯物論的解釈が優位になる。

証明不可能な世界の超越的事象があるということは、唯物論側からは積極的には提示できない。可能なことは、観測不能な領域が存在していることを否定しないこと。だからといってその観測不能の領域は超越的で特権者が交信できる領域なのではなく、あくまで人類全般が観測不可能なものに過ぎず、ひとたび観測可能になれば、万人が観測対象とできるもの、いわば計測対象となる機械として一挙に出現する。神秘ではなく、観測可能な対象としての新たな現実領域の部分的な出現だ。観測可能な現世において発出した人間の人格機能の働きをつぶさに見つめ、推論することが肝要だということを、学問を職業としたケーガンは伝えたかったのだろうと読み取った。


【付箋箇所】
84, 109, 373
唯物論者的立場で特別なことが語られているということはあまりなかったので特段付箋を付けるにはいたっていない箇所が多い。

 

『「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義』の縮約した部分を無料公開 | 文響社 - Bunkyosha