読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

井澤義雄訳『ヴァレリイ詩集』(彌生書房 世界の詩17 1964)日本の文語調韻文というものを強く意識してなされた訳業

訳詩は訳者によって印象が異なってくるので、関心のある詩人については複数の訳者の訳業を比べてみたくなる。とくに原語で直接味読できない詩人に関しては、そうやって理解の幅と深さを拡張していくほかはない。

ヴァレリーの詩の翻訳と言えば岩波文庫でも読める鈴木信太郎が一般的なところで、最近では中井久夫訳がみすず書房から出ているが、図書館に所蔵されている確率が鈴木信太郎に次ぐものとしてはおそらく彌生書房の井澤義雄訳になる。ヴァレリーの40代以降の詩に何となく興味が出てきたところで今回井澤義雄訳を読んでみた。中井久夫訳は残念ながら今手元にはない。

井澤義雄の訳業は鈴木信太郎に輪をかけて日本語文語調韻文詩への傾斜が強く、だいぶ読み手を選びそうなもとなっているのだが、鈴木信太郎訳となんか違うな、こんなところあっただろうかなどと思いながら読みすすめていくと、新たな味わいを感じることができたりしてちょっと面白い。たとえば「ナルシス断章」の102行目から109行目の詩句に関しては、井澤義雄の訳で惹きつけられてあらためて鈴木信太郎訳を読み返してみた箇所だ。

井澤義雄訳

汝(なれ)もまたわれに呟く、葉ごもりの枝また枝よ、
おおこころ裂くざわめきよ、姿なき気息のままに
汝(な)がかろき黄金(こがね)はゆれて、卜兆(うらかた)をもてあそびつつ……
一切(ものみな)はわれに入り来る、生(き)のままの野の神々は!
中空(なかぞら)にわが秘めごとは露はなるさまに鳴り出で、
岩は笑ひ、樹木は泣けば、こころ魅くその声ゆゑに、
われもまた永遠(とわ)の魅惑に力なく繋がるる身を
天(みそら)にも届けとばかりひたすらに今は歎かふ。

 鈴木信太郎

木の枝よ、汝らもこれを呟く…… おお 心を引裂く
ざわめきよ、形態もなき息吹きのままに従ふざわめき、
汝らの軽(かろ)き金色(こんじき)は動揺し、この卜兆(うらかた)と縺れ戯る……
一切は わが身に絡まる、野性なる女体(にょたい)の神々。
かくて わが心の秘密は、大空に 響き渡りて、
岩は 笑ふ。木は 泣く。その愛らしく泣く聲に、
われもまた、力も失せて 永遠の魅力に牽かれて
虜(とらは)るる身を、九天にとどけと只管(ひたすら) 嘆きに嘆く。

 「入り来る」と「絡まる」だとぜんぜん印象が違ってくる。フランス語ができる方はここで原文を参照されるだろうが、私は読めないので無理してまでやらない。日本語を比較して何となく喜んで済ませてしまう。

一切はわれに入り来る、生のままの野の神々は! ものみなはわれにいりきたる、きのままのののかみがみは!
一切はわが身に絡まる、野性なる女体の神々。  いっさいはわがみにからまる、やせいなるにょたいのかみがみ。

井澤義雄訳は「入り来る」なので「い」の音が印象的な直線的な訳語で、鈴木信太郎訳は「絡まる」なので「R」の音が印象的な曲線的な訳語になっているような気がする。


目次:

初期詩篇
 友のすすめ
 孤独
 暴行
 ひとときの厭世
 月の昇天

旧詩帖
 紡ぐ女
 ヘレネ
 オルフェー
 夢幻境
 眠りの森にて
 シーザー
 友情の森
 定かなる火や……
 揷話
 夏
 アンヌ
 セミラミスの歌

若きパルク

魅惑
 あけぼの
 鈴懸に
 列柱の歌
 蜜蜂
 あゆみ
 眠る女
 ナルシス断章
 風の精
 蛇の粗描
 失せし酒
 海辺の墓地
 漕ぐ人
 棕櫚


ポール・ヴァレリー
1871 - 1945
井澤義雄
1923 - 1996
鈴木信太郎
1895 - 1970