読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

『別冊太陽 気ままに絵のみち 熊谷守一』(平凡社 2005)不思議なあたたかさをもつ絵画の世界

クマガイモリカズ、明治十三 1880 ─ 昭和五十二 1977。「海の幸」の明治の日本洋画家である青木繁の二歳年長で、東京美術学校では同級で親友でもあったが、熊谷守一の方は戦後の作家という印象が強い。全168ページに多数の図版が収録されているが、その多くは戦後のもので、70歳以降の作品が非常に目立つ。それ以前の作品は比類ない守一様式を生み出すための助走に過ぎず、97歳までの衰えをまったく見せない老年期の約30年間が、熊谷守一を画家として市井にも知らしめた。規格外の人物であった。

前半、といっても明治も10年代に生まれた層での60歳というのは、もう一般社会では停年引退していてもおかしくない年齢だったが、守一は60歳前後からようやく仕事をはじめたという印象がある。幼い子供を抱え生活に困窮していた際も、売るためには絵を描けないでいた壮年から中年にかけての守一。描かないのではなく描けなかったのであろう。ある座談会では次のように発言したという。

私は描いていて”技巧”が入れば、いやに癇癪が起きる、他の人は却ってこれが都合よく思うらしいが(p110)

自分の画業と折り合いがつかず、生活からも作品世界からも責められるように生きていたのではないだろうか。五人の子供のうち三人をなくすという不幸にもあいながら、それでも家族が破綻せずにもったというのは、はたから見ていると奇跡のようにも思えるのだが、熊谷家の人々に流れる堅固かつ奥行きのあるメンタルの力が家を支えていたのだろう。

1947年11月、守一67歳の時に結核のため長女を21歳で亡くす。その翌年から約8年の歳月をかけて、この上なく単純だが世界のゆたかさをすこしも失っていない輪郭線のある平塗りの作品、「ヤキバノカエリ」が制作される。作品のなかには時間経過を感じさせるような陰影やグラデーションやせめぎ合う境界線のようなものはなく、感覚可能な対象世界を絵画表現と地続きのものとして再現することには距離を置いている。影のない時間を超えた抽象の世界に親和的で、尚且つ生物や自然の事物や構造物の量感はみずみずしいほどに残っている。不思議な温かさをもった作品である。

この作品以降の20年ほどの画業は、作風をほとんど変えることなく、旺盛につづいている。手と目と心が和解して、描くことに躊躇がなくなったのだろう。鑑賞者にもみることを強要しない、常温の確かな作品世界。いま私のリビングルームの壁には、ポストカードになった「白猫」(1959, 本書p62の図版)が10年ほど飾ってあるのだが、静かに眠っているペットの猫のような存在で、たまに見るとホッとする。命と命が存在できる場所との争いのない共存世界のあたたかさ。いいなと思える喜びを、後期のゆるぎない守一様式の作品は自然に与えてくれている。

岡崎乾二郎『抽象の力』で読んで興味をもった理論派としての熊谷守一をちょこちょこ探しているのだが、まあそんな人は姿を見せない。本書にもいなかった。しかし、守一の作品はいつでもあって、人に見ることを許してくれている。絵の前で、あるいは傍らで佇むことを許してくれている。守一の芸術の世界が、現実の世界をすこし拡げてくれていることで、鑑賞者はすこしだけ余分に世界のなかでくつろぐことができている。とりあえずはそれだけで十分。とはいうものの、いつか理論家の熊谷守一にも向き合ってみたい。

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熊谷守一
1880 - 1977