読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

青山拓央『分析哲学講義』(ちくま新書 2012) 知的挑発を埋め込んだ分析哲学入門書

フレーゲラッセルの論理学研究からはじまり、クワインウィトゲンシュタインなどの業績を経て、最近議論されることの多い心身問題、心脳問題、クオリアに関わる論点まで、入門書と言いながら、各講義で各トピックの概略図を示したあとに、読者に向けて自分で文献を読みながら自分の関心事について考え続けることをすすめる、といった感じで誘い水を流しつづける、ちょっと挑発的な一冊。自分で読みはじめるのだったらウィトゲンシュタインあたりが魅力的。

論理実証主義者はこの発想(引用者註:必然的真理はトートロジーであるという発想)をさらに展開し、論理的・数学的真理の必然性は人間の取り決めに基づく、と考えました。つまり、論理学や数学とは、人為的に取り決めた規則に基づいて同じことを言い換える作業だというわけです。(中略)他方、経験に基づく真理のほうは、要素命題の検証によって得られます。(中略)意味の検証理論によれば、命題の意味はイメージでも指示対象でもなく、その検証条件です。つまり、ある命題の真偽がどんな経験によって検証されるかを知っていることが、その命題の意味を知っていることなのです。
(講義4 文脈原理と全体論 「命題と検証」p95)

ウィトゲンシュタインは、前期『論理哲学論考』と後期『哲学探究』で上記の両立場からそれぞれ深掘りしているので特別な探究者である。


さて、本書は、分析哲学の入門講義であり、言語の発生、心の発生ということについては言及していない。物質としての脳と非物質的なものともいえる心との関係についてはちょっとした言及はあるものの、言語の発生については何も触れていない。言語は歴史的な生成物で、もっぱらコミュニケーションの道具として使用されている。こころというものは言語がすべて、というわけではないと私は思っているのだが、それでも多くは内的言語の自己聴解というかたちで活動しているものだろうと思っている。言語が歴史的な生成物という側面をもつのであれば、こころも歴史的な生成物という側面を持つであろうし、言語が道具という側面をもっているのだとすれば、こころも道具という側面を持っているであろう。言語を分析の主たる対象とする分析哲学の入門講義を読みながら、こころの非神秘的な側面についてなんとなく考えていた。並行して読みすすめていたアンドレ・ルロワ=グーランの『身ぶりと言葉』の影響もある。

 

目次:

はじめに
講義1 分析哲学とは何か
講義2 意味はどこにあるのか
講義3 名前と述語
講義4 文脈原理と全体論
講義5 意味はどこに行ったか
講義6 二つの自然と、意味の貨幣
講義7 可能世界と形而上学
講義8 心の哲学の眺望
講義9 時間と自由
文献紹介
おわりに

 

【付箋箇所】
8, 32, 53, 91, 95, 106, 120, 132, 148, 178, 197, 200, 212, 221, 249

 

筑摩書房 分析哲学講義 / 青山 拓央 著

筑摩書房 身ぶりと言葉 / アンドレ・ルロワ=グーラン 著, 荒木 亨 著


山拓
1975 -