読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

頼住光子『道元の思想  大乗仏教の真髄を読み解く』(NHKブックス 2011)一切衆生悉有仏性というのに修行が必要なのはなぜか?

修行というのは固着しないほうがよいものを固着させないように揉みほぐすようにする日々の運動、「全体世界」としての仏の場を開示しつづける終りない営みであるということを説いているのが本書の肝ではないかと思う。

道元は「悉有仏性」を「悉有は仏性である」と説いた。全体世界(「縁起―無自性―空」なる場)としての悉有が「仏性」として衆生に発現するというのだが、その仏性の発現を認めるためには修行による自己探求が必要だという。自己探求のはての自己脱出において自己に囚われないところの「悉有」=「仏性」が輝きだす。

正法眼蔵』「現成公案」巻巻頭の「仏道をならふといふは自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。(全上―七)」(仏道修行とは、自分とは何かを探求する営みでであるが、自己を求めて実は固定的自己などないことがわかる。自己とは、全事物事象と関係しあうことで成り立っている。)という言葉が端的に示しているように、修業とは、世俗世界において実体化された自己を、「縁起―無自性―空」なる場、全体世界としての万法、すなわち「悉有」へと開いて行くことである。自己を開いて行くというのは、実体化された自己を、ほかの諸事物事象と相互相依する関係においてある自己へと転換するということである。つまり、閉じた自己から開かれた自己へと転換することを、道元は、「自己をわするる」と言っているのである。このような自己の転換こそが、「自己をならふ」ことなのである。
(第3章 道元における「仏性」―『正法眼蔵』「仏性」巻を読み解く 「修行によって発現する仏性」p117)

悟りは修行のなかで常に更新開拓開示されていないことには意味がない。固着し権威階層化しそうになる言語の文節化作用を、よどみのないように浚っては清めて循環させる日々のメンテナンスが必要なようだ。仏道の自己に限ったことではないけれど。

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目次:
第1章 出発点としての「無常」
第2章 「さとり」と修行―『正法眼蔵』「現成公案」巻を読み解く
第3章 道元における「仏性」―『正法眼蔵』「仏性」巻を読み解く
第4章 道元の善悪観―『正法眼蔵』「諸悪莫作」巻を読み解く
第5章 道元の因果論
第6章 善悪の絶対性と仏教

 

【付箋箇所】
10, 12, 17, 30, 42, 44, 46, 59, 69, 81, 104, 111, 118, 124, 127, 189, 211, 215, 225, 226, 232, 235, 246, 252, 256, 268

 

頼住光子
1961 -
道元
1200 - 1253
親鸞
1173 - 1263