読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

エルンスト・カッシーラー『シンボル形式の哲学(三) 第三巻 認識の現象学(上)』(原書 1929, 岩波文庫 木田元,村岡晋一訳 1991) 分けすぎてはいけない

ドゥルーズを論じて千葉雅也は「動きすぎてはいけない」といった。カッシーラーの肝はおそらく「分けすぎてはいけない」というところにある。

現象学現象学であるかぎり必然的に意味と志向性の領野にとどまるわけであろうが、その現象学が、意味に無縁なものを指示するということできるものだろうか。事実ここでは「感覚的ヒュレー[質料]と志向的モルフェー[形相]との注目すべき二重性と統一性」が、繰りかえし頭をもたげてくるかもしれない。だが、だからといってわれわれには、「形式なき質料」とか「質料なき形式」といった言い方をする権限が与えられるものであろうか。こうした分離はある意味では、われわれの意識分析のための不可欠な道具の一つかもしれない。だが、果たしてわれわれは、こうした分析的裁断、こうした<distinctio rationis[理性上の区別]>を現象のうちに、つまり意識の純粋な<所与>そのもののうちに移し入れてよいものであろうか。なにしろわれわれはつねに意識現象の具体的全体しか知らないというのに、――アリストテレス風に言えば<質量>と<形相>とのシュノロン[合成体]しか知らないというのに――、さまざまな形式に入りこむ同一の質料的構造成分などといった言い方を果たしてここでしてよいものであろうか。現象学的考察の立場には、「質料それ自体」も「形式それ自体」もありはしない。
(第2部 表出機能の問題と直観的世界の構造 「シンボルの受胎」p388-389 太字は実際は傍点、 ヒュレー、モルフェー、シュノロンにはギリシア語が同時表記)

心身問題を語るときも同様で、一体としてしか存在しないものを、分けずに分析していくところがカッシーラーの主戦場となっている。

 

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目次:

序論
 認識の実質と形式
 シンボル的認識とそれが対象世界の構築にとって有する意義
 内的経験における<直接的なもの>-心理学の対象
 近代形而上学における直観的認識とシンボル的認識

第1部 表情機能と表情世界
 主観的分析と客観的分析
 知覚意識の基本契機としての表情現象
 表情機能と心身問題
 
第2部 表出機能の問題と直観的世界の構造
 表出の概念と問題
 物と属性
 空間
 時間直観
 シンボルの受胎
 シンボル意識の病理学に寄せて
  失調理論の歴史におけるシンボル問題
  失語の病像における知覚世界の変化
  物の知覚の病理学に寄せて
  空間・時間・数
  行動の病的障害

【付箋箇所】
41, 45, 50, 59, 71, 74, 84, 87, 90, 100, 112, 114, 127, 143, 175, 180, 182, 184, 193, 198, 209, 219, 221, 260, 310, 331, 336, 347, 350, 360, 364, 383, 388, 395, 397, 442, 449, 488, 499, 526, 528, 531, 533

 

エルンスト・カッシーラー
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木田元
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村岡晋一
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