読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ジグムント・バウマン『グローバリゼーション 人間への影響』(原書 1998, 訳書 2010 法政大学出版局)時間/空間が圧縮された時代における時間/空間の消費の格差

原書が出たのが1998年、OSといえばWindows95,98でアナログ回線のダイヤルアップ接続が標準だった頃。訳書が出たのが2010年、OSといえばWindows XPVista光回線無線LANが広がっていった時代、まだWifi使えるのが普通ではなかった時代。現在2021年、Wifiは5Gに、パソコンではなくスマホタブレットが一人一台以上が当たり前の世界。物理配線には縛られなくなったけれども、いつでも接続可能であることをなかば要求される世界となった。


また、通信環境の高度化により情報発信の経路も複雑化、世俗化され、渾沌となっている。


資本主義経済下の消費社会も情報交換の広域化、多様化によってグローカルなブランド化が進展、これといって特徴のないローカル企業、地域の商店は一掃されてしまっていっている。


グローバリゼーションが進展しているなかでの日々。


いいこととわるいこと両面あるけれど、もとには戻れないし戻りたくもない。


単純に1890年代の樋口一葉が描く庶民の世界にもどりたいなんて普通は思わない。『コンビニ人間』の村田沙耶香がタイムスリップして1890年代小説を書くよりも、『たけくらべ』の樋口一葉がタイムスリップして2020年代小説書いてくれた方がよっぽどいい。スマホをもった樋口一葉。どこかしら無敵感もある。


ジグムント・バウマン『グローバリゼーション 人間への影響』は、特殊な才能もなく、幻想としての無敵感ももてない一般庶民層へ、全世界的な状況確認を行うようにうながす書だと考えられる。無限空間のなかでぞんざいに扱われることを宿命として待っているような弱小消費者としてあることが、君たち一般層の現在の基本的なポジションであるんだよとバウマンは指摘する。回避策を示してくれはしない。まずは状況確認が必要なことだけは確かだろうと、とりあえず見るべきものとそれが持つ方向性を提示してくれている。


原書刊行から20年、少しも発言が古びていないことが嫌でもあり、怖ろしくもある。


忘れやすさとコミュニケーションの(高速性のみならず)費用の安さは、同じ状況の二つの側面にすぎず、分けて考えることなどできない。安価なコミュニケーションは、ニュースが迅速に届くことを意味すると同時に、獲得した情報をすぐに氾濫させ、窒息させ、或は放逐することを意味する。「ウェットウェア」(引用者注:人間の頭脳)の労力が、少なくとも旧石器時代から大きく変わっていないため、安価なコミュニケーションは記憶を満たして安定させるどころか、記憶に殺到して覆いつくす。
(第1章 時間と階級 「移動の自由と社会の自己構成」 p22-23 )

「時間/空間」を資産によって操作できる層と操作できない層が存在するし、コミュニケーションのコストと方向性を操作できる層と操作できない層に分割されもする。それでもある程度、入力と出力に関する選別の自由は立場の差をこえて共通に存在する。確たる資産がないのなら、とりあえずは共通に存在するであろう部分に賭けて、リターンの具合をチェックし、フィードバックしていくほかはないだろう。


そんな読後感を残した一冊。

 

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目次:

第1章 時間と階級
 第二の不在地主
 移動の自由と社会の自己構成
 新しい速度、新しい分極化
 
第2章 空間の戦争―経過報告(キャリア・レポート)
 地図をめぐる戦い
 空間の地図化から地図の空間化へ
 集会恐怖症(アゴラフォビア)と地域の復興(ルネサンス
 パノプティコン後の生活はあるのか?
 
第3章 国民国家の後に―なにが?
 普遍化しているのか―それともグローバル化されているのか?
 新しい収用―こんどは、国家から
 可動性のグローバルなヒエラルヒー
 
第4章 旅行者と放浪者
 消費社会で消費者であること
 移動する私たちの分断
 世界を動くこと 対 世界が動くこと
 健やかなるときも病めるときも―つねに共に
 
第5章 グローバルな法、ローカルな秩序
 不可動性の工場
 ポスト矯正時代の刑務所 
 安全性―わかりにくい目的のためのわかりやすい手段
 秩序の外側
 

ジグムント・バウマン
1925 - 2017
澤田眞治
1964 -
中井愛子