読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

高畑勲『一枚の絵から 海外編』(岩波書店 2009) 先行作品との出会いがつくり出すあらたな制作欲に出会う時間

日本編と同時発刊の海外編。一冊での刊行であれば編集も変わってきたであろうが、日本で500ページ超の書籍を刊行するのは相当難しいことなのだろう。収録エッセイはスタジオジブリの月刊誌『熱風』におけるおもに絵画作品に関する連載がベースになっており、日本編/海外篇どちらか一方だけとなるとどうも居心地の悪い分割構成になってしまったと思う。両方読めばいいだけのことなのだが、販売購入についての制約を考えてしまうとほんのちょっと悲しい気持ちになったりもする。軽いものが好きなのは日本人の性向であるということことは、高畑勲『一枚の絵から』の本文の中からも読み取れることなので、良い面もあり制約として難しく感じる面でもあるのだなと考える。

「海外編」は「国内編」以外のものを対象としているので、「国内編」に比べてしまうと論の凝集度という点ですこしゆるんでいるという読後の感覚も残る。なにしろ海外という外側全部を対象としているので、自転方向順に近くから挙げていくと朝鮮、中国、インド、イスラム(ペルシア)、ロシア、西欧、アメリカ。中南米は落ちてしまったかもしれない。

ひとつひとつのエッセイの質としては日本編と変らない。視覚系伝統芸術の新興領域たるアニメーションの世界の開拓者でこそ持てる視点や知見を惜しむことなく直球で投げ込んできてくれる文章だ。多くの人は打ち返すことができない見えるかどうか妖しい気息も、落ちつきある常温の表出のなかに込められているようで、じっと息をひそめて感じ取りたいと集中した姿勢を取ってしまう、魅力ある文章となっている。取り上げる対象も、目利きが自分の肉眼で見たなかでの、これぞという逸品で、読者をその絵の前に連れて行く(あるいは引きずり込む)力は相当強い。幼少期、青年期を過ごした岡山市で足繁く大原美術館に通っては、エル・グレコの「受胎告知」やホドラーの「木を伐る人」に感動し、上京後は東京の各美術館の収蔵作品を見てまわる日々を過ごしたからこそ書ける文章が本作品の中にはある。

たとえば、国立西洋美術館収蔵のクールベの「波」について書かれた文章。

「線で描かれた平面の絵は、はじめから見てのとおり自分は仮の姿です、と言っているので、それを透して背後にあるホンモノを読み取ろうという気にさせやすいが、逆に陰影やマチエールで立体感をつけた絵は、自分をホンモノだと主張してしまうがゆえに、下手だと目も当てられないことになる」という私の考えからすれば、現状は歯がゆいかぎりだ。
たとえば海や波の表現で、もしリアルな感じをどうしても出さなければならないのならば、はじめからCGで誤魔化す前に、もっと真剣にクールベの態度に学ぶ必要がある。
クールベ:「波」p123)

近年のアニメーション作品制作にあたって「もしリアルな感じをどうしても出さなければならないのならば」というところから迫っていく高畑勲の創作についての魂には、誰でも見上げるべきものがあると思う。


【付箋箇所】
6, 13, 42, 76, 123, 129, 136, 147, 156, 161, 174, 194, 207, 254

https://www.iwanami.co.jp/book/b263359.html

目次:
徽宗:「桃鳩図」、「白釉黒花魚藻文深鉢の魚絵」
ジョット:「桃鳩図」
ポール・ド・ランブール他:「ベリー公のいとも豪華なる時祷書」の月暦絵から「二月」
アンドレイ・ルブリョフ:「聖三位一体」
ボッティチェリ:「ざくろの聖母」
エル・グレコ:「受胎告知」
ラ・トゥール:「大工聖ヨセフ」
レンブラント:「机の前のティトゥス
フェルメール:「デルフトの眺望」
アラビア:「白地多彩野宴図」
ヨーゼフ・ランゲ:「ピアノを弾くモーツァルト
申潤福:「園傳神帖」から:「端午風情」
ドーミエ:「ドラマ」
クールベ:「波」
ベルト・モリゾ:「砂遊び」
ゴーギャン:「海辺に立つブルターニュの二少女」
ゴッホ:「農婦のいる古いぶどう畑」
ロートレック:「イヴェット・ギルベール(ポスターの原案)」
セザンヌ:「赤いチョッキの少年」
ホドラー:「木を伐る人」
マティス:「ダンス」
フランツ・マルク:「森の中の鹿たちII」
モディリアニ:「おさげ髪の少女」
クレー:「蛾の踊り」
ルオー:「ピエロ」
ベン・シャーン:「ぼくらは平和がほしい(ポスター)」
ピカソ:「少女とオタマジャクシ パロマ
バルテュス:「部屋」
ディズニー:「『眠れる森の美女』の背景画」
ウルミラー・ジャー:「米つき」

 

高畑勲
1935 - 2018