読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

【モンテーニュの『エセー』つまみぐい】01, 荒木昭太郎訳で 1-50, 3-8 本を読むモンテーニュを読む

モンテーニュの『エセー』つまみ食い資料をつくったので、自分でも利用してみる。完訳本を用意すると全部読まなくちゃいけないという圧がかかってきそうなので、抄訳本で読みはじめる。
中央公論社『世界の名著 19 モンテーニュ』荒木昭太郎訳。『エセー』全体の3割程度の分量だろうか。
直近で講談社学術文庫の廣川洋一著『ソクラテス以前の哲学者』を読んで、はじめて原子説を説いたデモクリトスが語る幸福論に魅力を感じていたところなので、「デモクリトスヘラクレイトスについて」(1-50)から読みはじめてみた。

事物というものはおそらく、独自に、それ自身の重さや寸法や性質をもっているのだろう。しかし、われわれのなかにはいってしまうと、魂は、自分の了解しているとおりにそれらのあり方を裁断して、事物に着せかけてしまう。

事物に判断を与えているところの魂の働きについて目を向けさせたあとで、辛辣な笑いの側に立つデモクリトスと、悲しみと憐れみのまなざしを持つヘラクレイトスを対比的に紹介して、その観察の厳しさゆえにデモクリトスの方を好むとモンテーニュは宣言する。その嗜好において、モンテーニュは乾いた感性の持ち主であろうことがわかってくる。

つづいて、ソクラテスも想起させる「無知というわたしの根本的なあり方」についての訳注にうながされて「意見をかわす技術について」(3-8)に目を通した。
このエッセイでは、各人の十分吟味したうえで忖度なしに述べられた意見を尊重し、それに客観的な姿勢で向き合うことができる討論を愛するモンテーニュ自身の性向について述べられていて、その客観的に吟味をする対象は「私」という存在にももちろん及ぶのだといっている。

どこまで自分の価値があるかを見てとろうとしないのも、自分について見てとったこと以上のことを言うのも、同じようにまちがいなのだ。

『エセー』でモンテーニュは「わたし自身についてだけ語る」といっている。近代的知性によって書かれた初めての書物ともいわれる『エセー』は1592年にモンテーニュが亡くなるまで20年間にわたって書き継がれたものだ。日本では千利休が生きていた時代だ。


ミシェル・ド・モンテーニュ
1533 - 1592
荒木昭太郎
1930 -