読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

真木悠介『自我の起源 愛とエゴイズムの動物社会学』(岩波書店 1993, 岩波現代文庫 2008 ) 読むことの先に初めて出現するまばゆい世界

先日読んだ『戦後思想の到達点』収録の大澤真幸との対談で社会学見田宗介真木悠介)は後世に残したい仕事を七つ挙げていた。
理論的なものとして『時間の比較社会学』『自我の起源』『現代社会の理論』『現代社会はどこに向かうか』の四点。
その他で熱心な読者がついている『まなざしの地獄』『気流の鳴る音』『宮沢賢治―存在の祭りの中へ』の三点。

今回私は、単行本のほうで『自我の起源』を読んでみた。全198ページで、意外と軽く読めてしまう。横書きなのに横展開の文字数が少ないのがすこし読みずらかったが、それ以外はよい書物。
本編内容はドーキンスの「利己的な遺伝子」論を軸にむかえて、生命の進化を見ながら、個体と意識の発生を追い、更には生きる歓びとは何かという問題に迫るというもの。生殖作用や共生という視点から、他なるものとともに、個体の枠組みからさまよい出ながら存在することが、多細胞生物の、そして人間としてのいちばんの歓びではないかと語られる。

同種個体間・異種個体間の関係の諸形態を見てきたように、個体が個体にはたらきかける仕方の究極は誘惑である。他者に喜びを与えることである。われわれの経験することのできる生の歓喜は、性であれ、子供の「かわいさ」であれ、花の色彩、森の喧騒に包囲されてあることであれ、いつも他者から<作用されてあること>の歓びである。つまり何ほどかは主体でなくなり、何ほどかは自己でなくなることである。
(7 誘惑の磁場―エクスタシー論 「Ecstasy:外に立つこと」p145 )

他なるものとの関係で誘惑したり誘惑されたりするのが快であるということが生命には組み込まれているのだから、そのことを見つめてみましょうという論理である。キルケゴールなどと絡めて読んでみたりすると拡がりが出ていいかもしれない。

その他では、短い論文ながら補論2「性現象と宗教現象―自我の地平線」で展開される宮沢賢治論がとても力強かった。補論はフォントのポイントが一回り小さいためか、適度に詰まって読みやすくもあった。「<禁欲>という戦略をとおして斥けたのは、性の回路の張りわたす、共同体の「愛」という名の排他の力だ」(p182)として、共同体がもつ抑圧形体に抗う宮沢賢治を描き出し、また浄土真宗法華経とのどちらの教派にも究極的には馴染めなかった宮沢賢治の宗教観を引き出した本論文からは、見田宗介真木悠介)の文学的な感性の鋭さと細やかさが感じ取れる。私自身は社会学者としての見田宗介真木悠介)よりも、そのベースに居るであろう感受性豊かな読み手見田宗介真木悠介)に驚きと畏れを感じる。ふりかえれば、本論『自我の起源』の最後で、西行の「花の下にて春死なむ」につけたほんの数語のコメントも、常人離れした切り込み方であった。確認は是非本書本文で。

www.iwanami.co.jp

 

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【付箋箇所】
20, 46, 58, 59, 66, 69, 79, 82, 91, 97, 118, 142, 145, 148, 152, 164, 174, 182, 197

 

目次:
CARAVANSERAI:自我という都市
1 動物の「利己/利他」行動
2 利己的な遺伝子「理論」
3 生成子の旅―「個の起原」の問い
4 共生系としての個体―個体性の起源
5 創造主に反逆する者―主体性の起原
6 「かけがえのない個」という感覚―自己意識の起原
7 誘惑の磁場―エクスタシー論
テレオノミーの開放系―個の自己裂開的な構造
補論1 「自我の比較社会学」ノート
補論2 性現象と宗教現象―自我の地平線

 

見田宗介真木悠介
1937 -